第241話 ホーネット村領館
夜の闇を切り裂くように、ヴェゼルたちの馬の蹄が響いた。
灯りの少ないホーネット村の入口で、見張りの男が弓を構える。その顔に月光が差し、すぐに驚愕の表情に変わった。
「ヴェゼル様!? 誰かと思いましたよ! どうしたんですか、こんな夜更けに! 他のみんなは?」
息を荒げたまま、ヴェゼルは叫ぶように返す。
「大至急、父さんと母さんに話がある! 急いで通してくれ!」
その切迫した声に、門番のガゼールは一瞬で真剣な顔になる。
「は、はい! すぐに!」門が開く音と同時に、ヴェゼルは馬の腹を蹴った。
夜気を切り裂いて馬が駆け抜ける。普段なら村内では下馬しなければならないが、そんなことを気にしている余裕はない。後ろにはトラヴィックと、ヴェゼルの背にしがみつくサクラがいる。
灯りが増え、やがて領館の屋根が見えた。馬を止める間も惜しんで、ヴェゼルはほとんど転げ落ちるように地面へ飛び降りると、そのまま館の扉へ駆けた。
「坊っちゃま!? どうなされたのです!」驚いた執事のカムリの声が響く。
しかしヴェゼルは答えず、そのまま応接間へと走り込む。扉を開けると、暖炉の灯が部屋を照らしていた。椅子に座っていた父フリードと母オデッセイが同時にこちらを振り返る。
「ヴェゼル……?」
その一言を聞いた瞬間、張り詰めていた何かがぷつりと切れた。ヴェゼルは言葉にならず、まっすぐ母の胸に飛び込んだ。
「ヴァリーがっ……ヴァリーさんがっ!」嗚咽があふれ、言葉が途切れる。
オデッセイは驚きながらも、息子を抱きしめた。その体は埃と汗と涙でぐしゃぐしゃだったが、母は何も言わず、ただ撫でた。
フリードも静かに立ち上がり、肩に手を置く。ヴェゼルは泣いた。子供の頃のように、声を殺さずに。泣き疲れてようやく息を整えたころ、部屋の空気は静寂に包まれた。
「……帰ってきたのね、ヴェゼル」
オデッセイの声が、火の音に溶けて響く。ヴェゼルは小さく頷き、袖で涙を拭った。ふとオデッセイの視線が背後に向かう。
そこには、気まずそうに立つトラヴィックと、月光に照らされた大きい姿のサクラがいた。
「……あなたは……サクラちゃん?」その声に、サクラの目が見開かれる。
「わ、私のこと……わかるの?」
「当然でしょ? ヴェゼルの婚約者なんだから」
その瞬間、サクラは目に涙をため、駆け寄ってオデッセイに抱きついた。
「オデッセイさん……! オデッセイさん……!」
再会の抱擁に、部屋の空気が少しやわらぐ。
その隣で、トラヴィックが一歩前に出た。
「ノアのバネット商会の護衛を務めております、トラヴィックです。お久しぶりです、オデッセイお嬢様」
「あら! まあ! トラヴィック! 何年ぶりかしら!」
短い笑みが交わされたあと、ヴェゼルはようやく落ち着きを取り戻し、両親に向き直った。
「父さん、母さん。……大事な話があります。座って聞いてください」
フリードとオデッセイが真剣な表情で椅子に腰を下ろす。ヴェゼルは深呼吸をして、ゆっくりと語り出した。
「帝都で……虐待されていた兄妹を見つけて、保護しました。その子たちを診てくれたのが、聖職者のエスパーダさんでした。俺たちはそのままビック領を目指したんですが……途中でトランザルプ神聖教国のクルセイダー三百人に囲まれました。妖精を誘拐したと決めつけられ、抵抗したら、ヴァリーさんが……」
喉が詰まり、言葉が消える。沈黙が流れ、オデッセイの目から再び涙がこぼれた。フリードは拳を握りしめ、じっと火を見つめている。
「ヴァリーさんが……そんな……」
震える声が、静かに室内を満たした。ヴェゼルは歯を食いしばり、続けた。
「それで、俺は……我を忘れました。収納魔法を使って、クルセイダー三百人を殲滅しました……」
重い沈黙。オデッセイの目がゆっくりとヴェゼルを見つめる。
フリードは目を閉じ、深く息を吐いたあと、低く言った。
「……よくやった。それでヴァリーさんが喜ぶかは分からんが、何もしないよりはずっといい。お前は、きちんと仇を討ったんだ」
その声には怒りではなく、誇りと悲しみが混ざっていた。しかし、オデッセイは複雑な表情で唇を噛んでいる。
「でも……ヴェゼル、それで済む話ではないわ。トランザルプ神聖教国に……」
「……はい。もう、あの国の聖職者は、俺の前に現れたら全員殺すって言いました」
オデッセイは目を伏せた。重く苦しい空気がまた落ちる。
「……それで、サクラちゃんは、どうして大きくなったの?」
少し空気を変えようとしたように、母が尋ねた。ヴェゼルは視線をサクラに向け、少しだけ笑う。
「サクラが、ヴァリーさんの死を自分のせいだと言って泣いてたんです。だから俺……言ったんです。『悪いのはサクラじゃない。この世界を作った神だ』って。そしたら、光があふれて……気づいたら、サクラがこの姿になってました」
皆が息をのんだ。オデッセイは信じられないような顔でサクラを見つめる。フリードは何かを悟ったように小さく頷いた。
「でも……太陽が沈まないとこの姿にはなれないらしいです。サクラにも理由は分からないみたいですが」
「不思議ね……けれど、きっと意味があるのでしょう」
オデッセイは静かにそう言って、深く息をついた。そしてヴェゼルを見つめ直す。
「それで、あなたは何のために戻ってきたの?」
「帝都から、事情聴取があると思います。その対応と、あと……今後、トランザルプ神聖教国へどうするか。それを父さんと母さんと相談したくて。……それともうひとつ」
ヴェゼルの声が少し震える。火の明かりが、その頬に柔らかく揺れた。
「ヴァリーさんを、このホーネット村で……眠らせてあげたいんです」
沈黙。オデッセイは息を詰め、目を閉じたあと、ゆっくりと立ち上がった。
「……そう。分かったわ。でもね、今日や明日で帝国や教国の何かが動くわけじゃないでしょう? だから今夜はもう……お風呂に入って寝なさい。あなたたち、すんごく臭うわよ」
「えっ!? ちょ、ちょっと! わ、私まで!?」
真っ赤になって慌てるサクラを見て、思わずトラヴィックが吹き出した。その小さな笑い声が、張り詰めていた空気を少しだけ解きほぐす。
「さあ、行きなさい。侍女を呼ぶわ」
そう言ってオデッセイは微笑み、涙を指でぬぐった。ヴェゼル、サクラ、トラヴィックの三人は、侍女に案内されて浴場へ向かう。廊下の外には静かな夜風。
ヴェゼルは歩きながら、胸の奥でつぶやいた。
(帰ってきたんだ、やっと――)
そして心の片隅で、ヴァリーの笑顔を思い浮かべながら、静かに目を閉じた。




