第240話 ビック領へ03
森の街道を抜けるたび、魔物がぽつぽつと現れた。群れではなく、野に迷い出たオークやウルフの類いだが、油断はできない。だが、その程度なら問題はなかった。
トラヴィックが馬からひらりと舞い降りて槍を構えると、ほとんど一瞬で片がつく。彼は寡黙で無骨な男だが、戦いの所作には迷いがない。風を纏わせた槍が唸り、刃が空気を裂く音とともに、オークの喉を貫く。
血の匂いが風に乗って漂う頃には、もう敵は崩れ落ちていた。
「……速いな」ヴェゼルが思わず漏らすと、トラヴィックは肩を竦める。
「風の魔法だ。魔物相手なら、力よりも速さがものを言う」
槍の穂先から淡く風が流れるのが見えた。それは魔法というより、呼吸の延長のようで、余計な力がどこにもない。その姿を見て、ヴェゼルは少しだけ息をのむ。
父・フリードは剣の名手だった。ヴェゼルも当然、幼いころから剣を手にして育った。
だが森のような狭い戦場では、長剣を振るうには不向きな場面が多い。突くだけで仕留められる槍のほうが、はるかに実戦的だ。
実際、父が森で魔物討伐に出たときも、周囲の兵の多くは槍を手にしていた。それでもフリードは頑として剣を離さなかった。
「剣は、俺の象徴だ」と。
あの言葉が、今も耳の奥に残っている。ヴェゼルは小さく笑った。
――あの頑固さ、今なら少しわかる気がする。
だが同時に、トラヴィックの槍を見て学ばない手はないと思った。夜の野営地で、ヴェゼルは進んでトラヴィックに頼んだ。
「槍の構えを、もう少し見せてくれませんか」
「構えだけなら教えてやる。だが槍は“突く”より“間合い”だ。そこを覚えろ」
それから、休憩時間のたびに稽古が始まった。ヴェゼルが馬上で構えると、トラヴィックは穂先を軽く叩き、立ち位置や間合いを調整していく。
サクラはその傍らで、真似をするように小枝を振り回していた。器用なトラヴィックが短時間で削り出した“サクラ用の槍”は、彼女の身長にぴったりだった。
「見てヴェゼル! これ、ちゃんと突けるよ!」
「……危ないからあんまり振り回すな」
「はぁい!」
元気よく返事をしながら、彼女はまたくるくると回る。
そんなサクラを、トラヴィックが鼻の下を伸ばして眺めていた。
「なに、何その顔!」サクラが睨むと、トラヴィックは慌てて背筋を伸ばす。
「……あー、いや、その……鍛錬の熱意に感心してだな」
「へぇ?」サクラが頬をふくらませ、木の槍で軽くトラヴィックの膝を突く。
「変な目で見てたでしょ!」
「見てねぇよ! ……たぶん」笑いがこぼれ、少しだけ張り詰めていた空気が和らいだ。
旅の道中、そんなやりとりが幾度となく繰り返された。最初はぎこちなかったトラヴィックとサクラの距離も、次第に近づいていく。
ヴェゼルはその様子を見て、ほんの少し心が温まるのを感じた。あの襲撃の記憶で冷えきった胸の奥に、わずかな光が差し込んでいくようだった。
夜。焚き火を囲んで簡単な食事をとると、サクラはいつものようにヴェゼルの隣で丸くなった。
夜になると彼女の体は人間の少女ほどに成長する。けれど明け方には、不思議と小さくなり、ヴェゼルの懐に潜り込んで眠るのだ。
さすがに髪に絡まることはなくなったが、代わりに頬や手を寄せてきて、どこかしらが触れている。朝起きると、頬や首筋に彼女の涎が冷たく張り付いていて、思わず苦笑する。
「……まぁ、前からだから、もう慣れたな、これも」
「なにが?」目をこすりながらサクラが顔を上げる。
「いや、なんでもない」言葉を濁して立ち上がるヴェゼルを見て、サクラは笑った。
旅は過酷だったが、妙に充実していた。魔物の襲撃も訓練の一部と化し、ヴェゼルも槍を手にして戦うようになった。
最初こそぎこちなかったが、十度、二十度と突きを繰り返すうちに、身体が槍の長さを覚えていった。突く、引く、回す――その一連の流れが自然に繋がり、風を裂く感覚が腕を走る。
トラヴィックが腕を組んで頷いた。
「……もう一人前だな。数歳歳上でもヴェゼルに勝てる者などいないだろう」
「はは、そんなことないと思いますよ」ヴェゼルは笑いながら、額の汗を拭った。
途中いくつかの村に立ち寄り、その都度冷たい水で体を拭く。宿に泊まる夜もあった。だがほとんどは野営で済ませた。食料を買い込み、時には馬を休ませ、そしてまた走る。
季節はすでに秋の終わり。風は冷たく、朝露が鎧を濡らす。サクラが鼻をひくひくさせて言った。
「ねぇ、ヴェゼル。なんか、どんどん臭くなってる」
「言わないでよ。気にしてるんだから。川が少ないんだよ…………」
「だってほんとに……!」
「……じゃあ、サクラもだ!」
「えっ、うそっ」サクラが慌てて自分の服の匂いを嗅ぎ、顔を真っ赤にする。
トラヴィックが笑いを噛み殺しながら横を向いた。その何気ない時間が、妙に懐かしく、心を救っていた。
ノアを出て十七日。長い道のりの果てに、ようやくバーグマン・フォン・ヴェクスター男爵領の丘が見えてきた。
アビー――ヴェゼルの婚約者の父が治める地だ。夕日が地平を染めるなか、ヴェゼルは無言でその風景を見つめた。久しく会っていないアビーの顔が浮かぶ。
けれど、今の自分には告げねばならぬことがある。ヴァリーの死。その言葉を口にする勇気が、まだ持てなかった。
「寄るのか?」
トラヴィックが尋ねた。ヴェゼルはしばらく沈黙したまま、首を横に振る。
「……今はやめておきます。顔を見たら、きっと何も言えなくなるから」
「そうか。なら、任せる」トラヴィックはそれ以上何も言わなかった。
ただ黙って馬の手綱を握り直し、夜風を切る。ヴェゼルは胸の奥で呟いた。
——アビー、もう少しだけ待っていてくれ。今は、ヴァリーのことをきちんと伝えられるようになるまで。
そのまま彼らは街道を離れ、ビック領へと馬を走らせた。
あと一日。
ビック領のホーネット村——そこに、ヴェゼルの家がある。懐かしさと恐れがないまぜになった感情が、胸の奥で渦を巻く。帰れる。
けれど、帰りたくない。ヴァリーの死を告げれば、きっとオデッセイとアクティは泣くだろうな。
フリードは怒るかもしれない。そうするとサクラはまた、自分のせいだと涙を流すかもしれない。それでも、進まなければならなかった。
ヴァリーが命を賭して繋いだ今を、無駄にはできない。ヴェゼルは冷たい風に顔を向け、馬腹を軽く蹴った。
夜空の星がひとつ、道の先で瞬いていた。
——もうすぐ、家に帰る。
その言葉が、胸の奥で静かに響いた。




