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第239話 ビック領へ02

 旅の初日、朝靄を抜けてヴェゼルとトラヴィックは馬を飛ばした。空は澄み、風はまだ冷たい。


 遠くで野鳥が鳴く。馬の蹄が乾いた土を蹴り上げ、リズムよく響いていく。何度か馬を休ませながらの行軍だった。二度目の休憩では、トラヴィックが持ってきた甘い黒砂糖を一人で舐め齧っていた。


その隣で、トラヴィックの馬がじっと袋を見つめている。


「……あの馬、ずっとトラヴィックさんのお菓子狙ってますよね」


 ヴェゼルが苦笑しながら言うと、トラヴィックは表情一つ変えず答えた。


「やらん」


 どうやら甘いものは馬の大好物であっても、あげるつもりはないらしい。


 しかし次の出発から、明らかにその馬だけが不機嫌そうだった。足取りが重く、走りたがらない。


「トラヴィックさん、大丈夫ですか? 馬、ちょっと疲れてるような……」


「……いや、こいつが悪い」


 トラヴィックは無表情のまま馬を止め、袋の中から黒砂糖のような塊をひとつ取り出して馬に差し出した。馬はそれをぱくりと食べた瞬間、途端に機嫌を直して尻尾を振り始めた。


「……甘いものが、欲しかったんですね」


「……世の中、甘くないのにな」トラヴィックがぼそりと呟き、ヴェゼルは笑いを堪えた。


 ポケットの中から小さな声が聞こえる。


「ケチね、あのおっさん」


 サクラだ。まったく遠慮のない妖精である。



 やがて夕暮れになる頃、赤く沈む空の下、トラヴィックが馬の足を止めた。


「今日はここで野営だ。街道沿いだから、魔物はそうそう出ないだろう」


その声は低く、静かだったが、不思議と胸の奥を落ち着かせた。


ヴェゼルは小さく頷き、荷を下ろして夕食の準備にとりかかる。馬の荷から取り出したのは、魔物の燻製と硬いパン。本当なら収納箱に入れてある料理を温かいまま取り出すこともできた。


だが——その箱には、今はヴァリーが眠っている。今はなんとなく使う気になれなかった。


焚き火がぱちぱちと音を立て、夜風が草を揺らす。橙の光がヴェゼルの横顔を照らし、影を長く伸ばした。


トラヴィックは寡黙なまま、淡々と警戒を続けている。だがその手際は確かで、火の世話も、周囲の確認も抜かりがない。


やがて彼は小さな鍋に水を入れ、燻製肉をほぐして煮はじめた。香ばしい匂いが風に混じり、ほんの少しだけ、胸の重さが和らぐ。


「……いい匂いですね」


ヴェゼルが呟くと、トラヴィックは無言のまま、パンを差し出した。湯気の立つ即席のスープは、見た目は質素でも、妙に心に染みた。


冷えた体に温もりが戻ると同時に、ヴェゼルはふと焚き火の中を見つめる。赤い炎が揺らめくたび、誰かの笑顔が一瞬そこに見えた気がした。


ヴェゼルは静かに息を吐き、パンをちぎってスープに浸した。火の音だけが、夜の静けさの中に寄り添うように響いていた。


そんなとき、ポケットからサクラがひょいと顔を出した。「ねぇ、私の分はー?」


 トラヴィックがその姿を見た瞬間、無表情が崩れた。


「いい……」


 その声は絞り出すようで、しかも完全にとろけていた。さっきまでの苦み走った男の面影はどこにもない。サクラは思わず後ずさる。


「ちょ、ちょっと……なんなのこの人、目がきもい!」


 ヴェゼルが吹き出す。どうやらトラヴィックは小さいものが大好きらしい。サクラはヴェゼルの肩からひらりと飛び降りる。


「か、か…わゆす……」


「うわ、もう無理! きもっ! いつの時代のおっさんよ!」サクラは慌ててヴェゼルのポケットに逃げ込んだ。


 ヴェゼルは肩を震わせながら笑った。「まぁ、悪い人じゃないから……たぶん」


ポケットの中からモゴモゴと聞こえる。「“たぶん”って言った!」


 そんなやり取りのあと、完全に地平線に太陽が吸い込まれ闇の世界が訪れた。空には満天の星。火の粉が夜空へ舞い上がり、虫の音が静かに響く。


 そのときだった。ポケットが淡く光り始めた。


 慌てて飛び出すサクラ。すうrとサクラの周りを光が回り出す。その光はゆっくりと強まり、渦を巻くように彼女を包む。


眩い光が一瞬弾け、そこに立っていたのは──十代半ばくらいの大きさになったサクラだった。


「わ、私……また大きくなった!」彼女は自分の手を交互に見つめて驚く。


「夜だけ、大きくなれるみたい……不思議」


 トラヴィックが呆然と見上げていた。


「……でかくなると…………かわいく……なく……なった…いや、かわいいんだろうが…なんか……ちがう」


ヴェゼルは腹を抱えて笑った。サクラは不満そうに腕を組み、そしてヴェゼルの隣に座る。


「今夜は、このままの姿で寝るからね!」


「え、ええ……?」


「決定事項!」


 ヴェゼルは苦笑しながら寝袋に入った。


 サクラの体温は暖かく、柔らかい。けれどその温もりが、どうしても思い出させた。胸が少し痛む。けれど、同時に安心して、心が静かにほどけていく。サクラの腕がそっとヴェゼルを包み、闇がやさしく覆う。


 ──不思議と、寂しくはなかった。




 翌朝。


 「だれか助けてー!」甲高い声で目を覚ますと、髪がごっそり引っ張られていた。


 サクラがヴェゼルの髪に絡まり、完全に動けなくなっている。


「もう! なんでこんな絡まりやすい髪なのよ!」


「それはこっちの台詞だよ!」


 ヴェゼルがどうにもならずトラヴィックを呼ぶと、トラヴィックはにやりと笑い──いや、珍しく嬉しそうに──サクラをそっと掴み上げた。


「まったく、お転婆な妖精さんだな」見事に解き終えると、サクラが涙目で叫ぶ。


「わ、私は行きずりの男に…………汚された……もうお嫁に行けない……!」


 トラヴィックが青ざめた。


「行きずりの男って…………お、俺は悪くないだろう!」


「知らない! 二度と触らないで!」


 なんと理不尽なと呟き。夜中にヴェゼルたちのやめに、ちょこちょこと起きて周囲を警戒してくれていたのに。トラヴィックは肩を落とし、完全に打ちひしがれていた。ヴェゼルは苦笑しながら彼の背を叩いた。


「あとでホーネットシロップあげますから、元気出してくださいよ」


「……ホ、ホーネットシロップだと! 甘いものなら…許す」


「やっぱりそこなんだな……」


 朝陽が昇り、風が草を揺らす。どたばたと賑やかな旅の一日が、再び始まった。


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