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第237話 皇妃の元へ

バネット商会から皇妃への献上品が届けられたのは、午後の柔らかな陽が白い回廊を金色に染める頃だった。


静かな宮廷に、磨かれた床の上を滑る絹靴の音が響く。侍女たちが運ぶ木箱の上には、商会の紋章が刻まれた赤い封蝋。


その名を聞いた瞬間、皇子と皇女が弾かれたように母のもとへ駆け寄った。


「お母さま、早く! 開けてくださいませ!」


「ねぇねぇ、何が入ってるの?」


声が重なり、光の粒が子どもたちの髪の間で踊った。皇妃は微笑み、手を伸ばす。


「もう、少し落ち着きなさい。——仕方ないわね」


白布を外す指先は、日差しの中で透けるように白い。封を解くと、香のほのかな残り香とともに、箱の内側から柔らかな光がこぼれた。


そこには、まるで小さな星々を閉じ込めたような透明な玉がぎっしりと詰められていた。青は澄んだ湖のように、緑は森の深奥を映すように、琥珀は夕陽の名残を宿し、紫は夜明け前の空を思わせた。


光が当たるたび、玉の内側で反射する世界が小さく揺れ、回廊の白壁に虹色の斑が踊る。


「わぁっ、きれい!」


「これ、転がしてもいい? 遊んでいい?」


皇子と皇女の頬は、宝石の輝きを映して紅潮していた。その無垢な笑顔に、侍女たちも思わず微笑む。


皇妃は目を細め、箱の底を覗き込んだ。そこには、薄い羊皮紙が一枚。柔らかい筆致で、「玉当て」「島出し」「穴落とし」など、遊び方が絵付きで丁寧に書かれていた。


ヴェゼルが遊び方をベンティガに教えたものを遊び方の説明書として入れたものだ。筆跡の一つひとつに、どこか人の温もりがあった。


「まあ……子供たちのための贈り物なのね」


感心したように呟く皇妃に、控えていた侍女が静かに頷く。


「しかも、これを一度にでなく、二度に分けて届けるなど……印象を残すためでしょう。さすがはバネット商会にございます」


「ええ。あの商会は、贈り方さえも心得ているわ」


皇妃は穏やかに微笑んだ。だが、その指先がふと止まる。箱の底に、もう一枚、封書が忍ばせてあった。細い蝋封。見落とすほど薄く、慎重に封じられている。




封を切ると、羊皮紙から淡い香草の匂いが立ちのぼった。目を走らせた瞬間、皇妃の表情が凍りつく。微かに揺れる手、震える呼吸。


「……なんてこと……」


その声は、ほとんど囁きのようだった。椅子を引く音がやけに大きく響き、彼女は立ち上がると、手紙を強く握りしめた。


そこには——三日前の惨劇が記されていた。


帝国国境から二〜三日の地で、トランザルプ神聖教国のクルセイダー三百人がヴェゼル一行を襲撃したという。


「妖精を渡せ。渡さぬなら排除する」そう脅し、同行していた子供に手をかけようとした時、ヴァリーが立ちはだかり、戦闘となった。結果——ヴァリーは討たれた。


だが同時に、クルセイダー三百も全滅。わずかに生き残ったのは、クルセイダーの騎士団長のみ。


ヴェゼルたちと行動を共にしていた教国の主教とその従者は傷ついたが生き残ったと、しかし、その従者が密かにクルセイダーと通じていたらしい——。皇妃は青ざめたまま、息を呑む。


「執事、すぐに陛下へ取り次ぎを」


その声には、焦りよりも恐れが滲んでいた。命を受けた執事が足早に去り、ほどなくして、重厚な扉が勢いよく開く。入ってきた皇帝は、ただならぬ気配を察して眉を寄せた。


「何があった?」


「これを……ご覧くださいませ」


皇妃の手から手紙を受け取った皇帝は、一読するや否や、険しい声を上げた。


「宰相と騎士団長を呼べ!」


皇妃の私室の部屋の空気が一瞬で張りつめる。ほどなくして現れた宰相エクステラは、静かに頭を垂れた。


その眼差しは冷静を装っていたが、心の奥では焦燥が渦巻いていた。(……早すぎる。襲撃の報告は明日するはずだった。どうして……


だが、顔には微塵も出さない。隣で騎士団長が息を呑む音が聞こえた。


「帝国内でトランザルプ神聖教国のクルセイダー騎士団三百が動いたというのか! それも、我が臣下の子らを襲うとは——!」


皇帝の声が響いた。エクステラは慎重に言葉を選び、沈着な声音で答える。


「にわかには信じがたい報でございます。しかし、書簡の出どころがバネット商会であるならば、真偽は果たして……」


「言い訳は無用だ!」


皇帝の拳が玉座の脇机を打ち鳴らした。


「戦を覚悟せねばならぬ。これは、帝国の威信を踏みにじる暴挙だ!」


怒声が壁を揺らし、空気が震えた。




その一方で、部屋のだいぶ離れた片隅では——大人の喧騒など構わずに、ころころとビー玉の転がる音が響いていた。無邪気に笑いながら遊ぶ皇子と皇女。


光の中で跳ねる小さな玉は、まるでこの国の未来を象徴するように美しかった。


だが、その音は、いまやあまりにも痛々しかった。燃え上がる帝の怒りと、屈託のない子どもの笑顔。


その対照が、残酷なほど鮮やかに、宮殿の空気を切り裂いていた。



 玉座の間に、怒声が響いた。皇帝の拳が玉座の肘掛けを打ち、重い音が石壁に反響する。


「帝国内での暴挙を、許すわけにはいかん!」


 臣下たちは一斉に膝をついた。天を震わせるようなその声に、空気が張り詰める。皇帝の目は怒りに燃え、その視線は宰相エクステラへと突き刺さる。


「まずはヴェゼルたちが今どこにいるかを調べよ。そして、彼らに詳細を事情聴取せよ! それから――トランザルプ神聖教国にはすぐに詰問の使者を出せ。今回の件は国家への侵略行為に等しい。全権をベントレー公爵に委ねる。反論があるならば、神聖教国の総主教自らが帝都に出向くがよい!」


 怒りを宿した皇帝の声が、玉座の間を震わせた。だが、同時にその言葉は、帝国の威信をかけた決断でもあった。


 その時、宰相エクステラが一歩進み出る。額には汗が滲み、白い指で懐から布を取り出しては何度も拭った。


「陛下……わ、私も先ほど報を受けたばかりでございます。内容を精査のうえ、至急ご奏上申し上げようと――」


「至急? 至急とは何だ!」皇帝の声が鋭く跳ねた。


「お前は影の情報を一手に握る立場でありながら、いち商会よりも報せが遅れるとは、何たる不手際だ! 帝国の耳目をどこに捨ててきた!」


 エクステラの肩がびくりと震えた。唇を噛みしめながら、なおも膝を折って頭を垂れる。


「……弁明の言葉もございません、陛下」


 玉座の間を沈黙が包んだ。皇帝はしばし視線を伏せ、重く息を吐いた。


「よい。……このことがひと段落したら、宰相エクステラ、その方はしばし休め。執務は他の者に引き継がせる」


 エクステラの顔が蒼白になった。それは“罷免”を婉曲に告げられたも同然だった。


 項垂れたまま、宰相は拳を握る。


 帝国の恥をさらした自責と、皇帝の信頼を失った焦りと――そして何より、自分の計画を台無しにしたヴェゼルたちへの憎悪が、胸の奥で静かに燃え上がっていた。


 その火は、怒りとも嫉妬ともつかぬ色で、宰相の心をじわりと蝕んでいく。


 ――帝国は必ず立て直す。その時、障害となる者は、たとえ子供でも排除する。


 宰相の沈黙の奥で、そんな暗い決意が芽生えつつあった。



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