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第235話 ヴェゼルとサクラ

夜は深かった。


窓の外では風が細く鳴き、焚き火の赤い残り火がゆらゆらと揺れていた。その光の中に、淡く光るものがひとつ、ゆっくりと現れた。


——ヴェゼルの収納箱の蓋が、静かに開く。


その中から、小さな光の粒がこぼれ出て、やがて人の形を取った。淡い桜色の瞳、透き通る羽。長く姿を見せなかった妖精、サクラだった。


ヴェゼルは、机に肘をつきながらその光景をただ見ていた。何の感情も浮かべず、呼吸すら浅い。まるで時間が止まったかのように。


サクラは彼を見た瞬間、唇を噛みしめた。そして、何かを抑えきれないように、ぽつりと声を漏らした。


「……ヴェゼル」返事はない。焚き火の火がパチ、と音を立てる。


次の瞬間、サクラの頬を大粒の涙が伝った。一粒、二粒、そして堰を切ったように——号泣した。


「ごめんなさいっ……!」小さな体を震わせながら、サクラは泣き続けた。


「わたしのせいで……! ヴァリーが死んじゃったの……!わたしがいなければ、みんなも、ヴァリーも……誰も、傷つかずにすんだのに!」


ヴェゼルは、ゆっくりとサクラを見つめた。その瞳には涙も怒りもなかった。


ただ、深い闇のような虚無だけがあった。サクラは泣きながら言う。


「……ねぇ、私が邪魔なら、言って。ちゃんと……消えるから。みんなに迷惑なんて、もうかけたくないの……」


その瞬間だった。何かが、ヴェゼルの中で、静かに軋んだ音を立てて動いた。彼は目を伏せ、ゆっくりと息を吐く。そして、初めて、彼の中に微かな熱が戻る。


「……サクラ。お前は悪くない」かすれた声だった。


しかしその言葉に、サクラは顔を上げた。ヴェゼルの瞳が、かすかに揺れていた。


「悪いのは……この世界の理そのものだ。ヴァリーは……完全に、被害者だ。そしてサクラもね」


そう呟いたヴェゼルの声は、まるで自分の奥底から響いてくるようだった。それは言葉というよりも、祈りに近かった。


——あのときの襲撃の場。


ヴァリーがカテラを庇い、魔法を詠唱し、そして、血に染まって倒れた。それが脳裏をかすめた瞬間、ヴェゼルの喉が焼けるように痛んだ。


だが、涙は出なかった。それでも確かに、胸の奥で何かが燃えはじめた。


「……この世はいつだって理不尽だ」ぽつりと、彼は呟く。


「誰かが死んでも、誰も責任を取らない。慈悲心で許しても後ろを振り向いた瞬間、自分が殺されてしまう。そして、人が消えても世界は平然と回り続ける」


その事実に、ヴェゼルは歯を食いしばった。胸の奥に沈んでいた怒りと悲しみが、形を持ちはじめる。


——このままでいいのか。ヴァリーの死を、無意味に終わらせていいのか、なんて綺麗事を言うつもりはない。


でも、何かを誰かが変えなければ、また同じ悲劇が繰り返されるのではないか。


「……何かを、しなければ」それは使命ではなく、焦燥に似た衝動だった。


ヴェゼルの心が、生き返った”瞬間だった。ふと気づけば、サクラはまだ泣いていた。


小さな肩を震わせ、顔を覆い、言葉を失っている。ヴェゼルは、そっと微笑んだ。その笑みは、涙を含まない代わりに、どこまでも優しかった。


「サクラ」


呼びかけに、サクラが顔を上げる。


「……僕の婚約者でしょ?」


サクラは一瞬、何を言われたのかわからずに目を瞬かせた。


「サクラが離れない限り、僕はサクラを離さないよ」


そう言って笑うヴェゼルに、サクラは一気に泣き崩れた。涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃの顔のまま、ヴェゼルに抱きつく。


「ヴェゼル……っ、ヴェゼルぅ……!」ヴェゼルの顔はすぐにびしょびしょになった。


だが彼は、それを笑って受け止めた。


「サクラ、何も言わなくてごめんね。でも、これはサクラのせいじゃない。サクラは——全然、悪くない」


焚き火がふっと揺れた。炎の赤が、二人を包み込むように照らす。ヴェゼルの言葉は、静かに、しかし確実に夜の闇を切り裂いた。


「この世界を作った神がいるとするなら、俺は問いたい。どうしてこんな理不尽を? どうしてお前は、こんな世界で命を弄ぶ?」


「悪いのは……この世界を、こんなふうに作った“神”だ」


その怒りは、単なる感情ではなかった。喪失と絶望、悔恨、焦燥――すべてが混ざり合った、生の意思そのものだった。


それは、サクラの体を包む小さな光に触れると、瞬く間に反応した。


「……ヴェゼル……?」サクラは震える声で呟く。光の粒が、サクラの周囲で渦を巻き始める。


小さな翼から、淡い光がほとばしり、次第に強さを増していった。涙を流す顔を覆う光の渦は、まるで世界そのものが振動しているかのようだった。


「……こんな世界を作った意思も、権力者も、俺が絶対に壊してやる!」


ヴェゼルは叫んだ。その声に、サクラの体を覆う光は一層激しくうねる。


すると奇跡が起こった。


サクラの周囲を淡い光が包み込む。光は交差し、渦を描くように彼女の全身を覆い、静かに膨張していく。その力強い揺らぎに合わせ、サクラの姿は妖精から精霊へと変わり、存在そのものが輝きで満たされる。


光は夜の闇を押しのけ、空間を染める。サクラは息をのむように目を見開き、震える声でつぶやく。


「わ……私……戻ったの……? 呪縛が……解けたの。私は、精霊に戻れたんだ!」


その言葉は、まるで世界そのものに響くかのように、静かで強い感動を放った。ヴェゼルはただ息をのむ。目の前で、長く失われていた存在が完全に甦ったのだ。


光の渦が膨張し、少女の姿を超えて大きく、神秘的な存在へと変わる。消えた小さな羽の代わりに、風と自然の力を宿した精霊の姿が現れ、空気までも震えるようだった。


空間全体が、二人の絆と再生の力に包まれる瞬間だった。光の渦は、サクラを押し上げ、膨張し、やがて人間の少女の姿を超えて大きく輝く存在へと変化した。


羽は消え、代わりに自然の精霊のような優雅な姿が現れる。サクラは息をのむように目を見開いた。


「サクラ……精霊に……」ヴェゼルは目を丸くして見守る。



サクラの声は高く澄んで、周囲の闇を打ち払うようだった。ヴェゼルは立ち上がり、両手を差し伸べる。


「だから……お前はもう泣かなくていい。俺が絶対に守るから」


サクラは嬉しそうに微笑み、そしてヴェゼルの胸にそっと身を預けた。


その瞬間、夜空を駆けるような風が吹き、二人を包み込む。その光景は、ただの再生ではなかった。それは、理不尽な世界に抗う意思の象徴であり、ヴェゼルの心の復活でもあった。


——小さな妖精は、ついに精霊としての本来の姿を取り戻した。


そして、その光の中で、ヴェゼルの胸に抱かれたまま、深い安堵と、新たな決意が生まれるのだった。

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