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第234話 エクステラの思い

宰相エクステラの手の中で、事実は静かに捻じ曲げられていった。


本来であれば――あの燃え盛る炎の正体を、密偵が正確に伝えていれば、全ては違っていたかもしれない。だが、彼らは知らなかった。燃え立つ火の中で形を失っていったものが、ヴェゼルの収納箱から溢れ出た「三百の心臓」だったことを。


それは、ヴェゼルが放った“裁き”の象徴であり、世界に対する静かな宣告でもあった。だが、密偵がその意味を理解する前に、ルークスが動いた。


堆く積まれた心臓の山――その上から液体をかけ、火を放ったのだ。ルークスとしてはせめてもの弔いのつもりだったのかもしれない。炎は瞬く間に燃え上がり、夜空を赤く照らした。


熱と光が、すべてをあの事実さえも覆い隠してしまったのだ。その光景を遠くから見ていた密偵には、それがただの戦火にしか見えなかった。ゆえに、報告は曖昧だった。


そして、エクステラの思考は、重大な勘違いをしたまま動き出すことになる。


――ヴェゼルの“力”の本質を、知らぬままに。


どのみち、もう後戻りはできなかった。トランザルプ神聖教国のクルセイダー三百が帝国内で活動できたのは、宰相エクステラが密かに手を貸したからだ。


これは皇帝には決して知られてはならないことだった。教国との裏交渉の結果、わずかに得られるはずだった外交的利権。だがそれが、いまや崩壊している。エクステラは薄暗い執務室で、ゆっくりと椅子に身を預けた。


机の上には、密書、報告書、そして書きかけの報告文。どれも冷たい文字の羅列だが、その裏には、彼自身の焦りが滲んでいた。


「……三百の精鋭が殲滅。だが、それを公にすれば、我が帝国が教国の侵入を許したことも露見する」


エクステラは低く呟く。唇の端にかすかな笑みが浮かぶ。


「ならば、真実など、書き換えればよい」


彼にとって“正義”とは、帝国の威信を守るための仮面でしかなかった。ヴェゼルが生きていようと、死んでいようと――問題ではない。


ビック領が滅ぼうが、ひとつの騎士家が崩壊しようが、帝国の安寧が保たれるならば、それでいい。

その冷酷な信念こそが、彼の支配の根であり、最大の毒でもあった。


「ヴェゼル……あの若造、あまりにも目立ちすぎた。母の血を引く者は、いつだって厄介だ」


エクステラは、報告の文面を新たに書き直す。筆先が走る音だけが、広い執務室に響いた。




エクステラの記憶の奥底には、決して人には見せぬ影があった。


――あの頃、自分はただの侍女の子だった。宮殿の最下層で働く、名もなき庶民の娘。


母は、王の退屈を紛らわせるための“手慰み”として選ばれた女だった。運命などという言葉が嘲笑にしか思えないほど、哀れで、静かな人生。


生まれた子供に、誰も名前を与えなかった。宮廷にとって、エクステラは存在してはいけない“誤算”だったのだ。下層の侍女が産んだ皇帝の子など、貴族たちにとっては汚点に等しい。


だからこそ、母子は宮殿の奥深く、外から見えぬ区画で“飼い殺し”のように生かされていた。薄暗い回廊。聞こえるのは厨房の喧騒と、床を磨く布の擦れる音。


彼にとって世界とは、その小さな範囲のことしか意味を持たなかった。


――それでも、生きた。


侍女たちは彼を“坊や”とも呼ばず、名前の代わりに「影の子」と呼んだ。けれど、彼の瞳だけは、母の誰よりも強く光っていた。


黙々と働き、勉学のまねごとを覚え、壁越しに聞こえる貴族たちの会話を真似て言葉を磨いた。


「どうして……自分はここにいるのか」それが、幼い日の彼の唯一の問いだった。


答えをくれる者はいなかった。だが、その日が訪れる。


まだ少年だった頃、ひとりの“皇子”が侍女たちの間を歩いていた。正妃の息子。誰もが頭を垂れる、未来の皇帝。


偶然、誰かがその皇子に告げたのだ――「陛下には、もうひとり、血を分けた子がいるらしい」と。


興味を持った皇子は、警備を振り切って最下層へ降りた。埃まみれの回廊の向こうで、エクステラと出会う。


「……あなたが、兄上なのですか?」不思議な響きの言葉だった。誰も自分を“兄”と呼んだことなどない。思わず息を呑んだ少年に、皇子は笑った。


「顔が似てる。やっぱりそうだ!」


その笑顔を、エクステラは一生忘れなかった。世界が突然、音を取り戻した気がした。その瞬間、運命は静かに歯車を回し始めたのだ。


やがて、宮殿の空気が変わった。


「皇帝のもうひとりの子」が存在する――その噂が、宮廷中を駆け巡った。


誰もが手のひらを返したように態度を変えた。昨日まで見向きもしなかった侍女が頭を下げ、厨房の男たちが余ったパンを差し出し、小役人たちが、妙に丁寧な言葉を使うようになった。


そして、皇子はどこへ行くにも「兄上」と呼び続けた。その言葉が、周囲の認識を変えた。やがて、名もなき下働きの少年は「皇帝の血を引く者」として、公式に記録に残る存在となる。


それが、エクステラのすべてを変えた。


“愛された”と錯覚した少年は、その日の喜びを胸に刻み、忠誠を誓った。


――この方のために生きよう。


――この方のためならば、どんな汚泥にも沈もう。


それが、彼の信念の始まりだった。


「弟の笑顔を、二度と曇らせぬように」


彼は、寝る間も惜しんで学問を修めた。筆の扱いを覚え、帝国法を暗記し、礼儀作法から統治理論まで貪るように学んだ。出自を嘲笑う者には、冷ややかな沈黙で応えた。


やがて、彼は宮廷の官僚に迎えられ、その鋭い頭脳と冷徹な判断で出世していく。


そして――ついに「宰相エクステラ」と呼ばれる日が来た。それでも、彼の心の奥底には、あのときの光景が消えなかった。皇子が微笑みながら言った、あの一言。


「あなたは、兄上だ」その言葉が、今も呪いのように心臓に刺さっている。


「……私は、あなたのために帝国を守る」誰もいない執務室で、彼は何度もそう呟いた。


それは誓いであり、同時に――己を縛る鎖でもあった。




――2日後に皇帝へ提出する報告書。


その内容は、すでに完全に改ざんされていた。


トランザルプ神聖教国のクルセイダー三百名が、一般人に偽装し、帝国内に秘密裏に侵入。

彼らの手引きをしたのは、教国総主教の息子エスパーダ。

エスパーダは“妖精保護”を名目に、ヴェゼルに接触。

交渉の過程で対立が生じ、ヴェゼルの婚約者ヴァリーが応戦。

結果、魔法によりクルセイダー三百は殲滅され、ヴァリーも同時に命を落とす。

帝国は本件を遺憾とし、教国に抗議を行う予定。


エクステラは文末に封印を押し、深く息を吐いた。


「……これでいい。真実など、誰も求めてはいない。弟とこの帝国を未来永劫守るためには、こんな捏造など造作もないことだ」


彼の中では、すでに“虚構”が現実を上書きしていた。だが――それこそが、後に帝国を揺るがす最大の誤算となる。


炎の中で消えた心臓の山を、誰も知らない。その光景だけが、静かに真実を語っていた。

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