第232話 ノアへ02
ノアの城門が見えてきたのは、昼を少し過ぎたころだった。高い石壁と鉄門の前で、衛兵が槍を構えて検問をしている。だが、ルークスの顔を見るなり、門番のひとりが目を見開いた。
「おぉ、ルークス殿……! お戻りでしたか」
「お願いだ。急ぎだ。通してくれ」
短く言うと、衛兵たちは慌てて槍を下ろし、ほとんど中を検めることなく通した。これもこのノアでは一番の商会だから、こそ威光が鳴り響いている証左だ。
街に入ると、白い石畳の大通りがまっすぐ伸び、その中央に巨大な建物がそびえていた。看板に《バネット商会本店》と刻まれた文字が陽光に輝く。
人々の視線が、泥と服にところどころ血で汚れた彼らの姿に集まったが、誰も声をかけなかった。
「裏口から回りますか?」ステリナが問うと、ルークスは首を振った。
「時間が惜しい。正面からだ。カデット兄に、状況を一刻も早く伝えたい」
扉を押し開けた瞬間、店内のざわめきが止まった。高級そうな商品が並ぶ商館の空気が、一瞬で凍る。泥だらけの靴、裂けた外套、疲弊した顔。誰もが息を呑んだ。
「おい、ルークス。いきなり何を——」
奥から現れたのは、整った服に身を包んだカデットだった。だが、弟の腕の中でぐったりと眠るヴェゼルを見た瞬間、その言葉が途切れる。
「……どういうことだ」
ルークスは低く答えた。
「賊徒に遭遇して襲われた。……ヴェゼルの婚約者が、その戦いで命を落とした。すまんな店内を汚してしまった」
言葉を失うカデット。しばし沈黙ののち、深く息を吐いた。
「店のことはいい。詳しい話は後で聞く。今は休め」
「感謝する。応接室を使わせてくれ。風呂と食事を……あと、侍女を」
一行は案内され、一階奥の応接間へ向かう。磨かれた床に泥が落ちる。侍女たちは一様に動きを止めたが、ルークスの視線に押され、すぐに動き出した。
「この子たちを頼む。体をきれいにして、休ませてくれ」
そう言って、カムシンとカテラを侍女に預け、ステリナには軽く頭を下げた。やがて、扉が閉まり、部屋にはルークスとカデットの二人だけが残る。
「……ルークス。お前の顔を見るのは久しぶりだが、その目は、戦場の者の目だな」
カデットの声は静かだった。
「俺たちはただ、帰ってきたかった。それだけだ」
「わかっている。追手はないのだな?」
ルークスが無言で頷く。
その言葉に、カデットは重く目を閉じた。外では、遠く馬車の車輪が回る音がかすかに響いていた。
ノアの空は穏やかだったが、その静けさの下に、確かな嵐の気配があった。
扉が静かに閉まった。外の喧騒が遠ざかり、部屋にはルークスとカデット、そして沈黙だけが残る。高窓から射す午後の光が机を横切り、戦場の余韻のような緊張が漂っていた。
ルークスは深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。対面のカデットは黙ったまま弟を見つめている。その眼差しは鋭く、ただならぬ話が始まることを悟っていた。
「カデット兄……これから話すことは、誰にも言わないでほしい」
「……ああ、約束しよう」短い返答に、長年商会を率いてきた男の重みがあった。
ルークスは一度目を閉じ、言葉を選びながら口を開く。
「順を追ってはなす。まずは、ヴェゼルの収納箱のことだが、あれに、闇の妖精が惹かれて住み着いた。名はサクラ」
「闇の妖精……?」
「ああ。黒い光を纏った、手のひらに乗るくらいの小さな妖精だ。奇妙なことにヴェゼルと仲良くなって、自分は彼の婚約者だと言い張っている」
カデットは吹き出しかけたが、ルークスの真剣な目を見て笑みを引っ込めた。
「……本気で言っているのか」
「本気だ。ヴェゼルも否定していない。妖精の気まぐれにしては、妙に一途だがな」
「貴族の縁よりも、先に精霊界と縁を結ぶとは……」
ルークスは小さく笑い、話を続けた。
「それからもう一つ。帝都で奴隷のように扱われていた兄妹――カテラとカムシンを保護した。妹は衰弱していたが、偶然出会った聖職者エスパーダが聖魔法で救ってくれた」
「聖職者が……?」
「そうだ。だが、今思えばそれが始まりだった」ルークスの声がわずかに低くなる。
「その後、エスパーダの従者キャリバーも同行して、俺たちはビック領を目指していた。だが、シグラの手前の峠で待ち伏せされた。トランザルプ神聖教国のクルセイダー三百人に」
「クルセイダー……? 三百……? 帝国内で? 正気か!」
「『妖精を保護する』という名目でな。だが実際は殲滅部隊だった」
空気が重く沈む。
ルークスは目を伏せ、低く告げた。「そして……ヴェゼルの婚約者ヴァリーが殺された」
カデットは息を呑む。言葉が出なかった。
「ヴェゼルは、彼女を失った瞬間に何かが壊れた。あのときのヴェゼルはもう、別人だった」
ルークスは続けた。「怒りが爆ぜた。ヴェゼルは魔法を使った」
「魔法? ヴェゼルが?」
ルークスは頷く。「“りんご一個しか収納できないハズレ魔法”――あれだ」
「まさか、あれが……?」
「そう。とんでもない魔法だ。詳しくは聞くな。三百人のクルセイダーが、十秒とかからずその場で息絶えた」
カデットの顔から血の気が引いた。
「オデッセイ姉上の子か……本当に、規格外だな」
「そうだ。ヴァリーを失ってなお理性を保っているだけでも奇跡だ」
ルークスの声には、叔父としての痛みがにじんでいた。
「それだけじゃない。その聖職者、エスパーダは主教だった。トランザルプ神聖教国の上層の人間だ」
「なんだと……? 主教が関わっていたのか?」
「本人は襲撃を知らなかったらしい。だが従者のキャリバーは違う。完全に関与していたようだ」
「そしてヴェゼルはキャリバーの両腕を斬り、団長の四肢を落とし、エスパーダは左腕を落とした。そして言ったんだ。“次に現れるトランザルプの聖職者は全員殺す”と。エスパーダを伝言役として生かして放った」
カデットは椅子に沈み込み、震える声を絞り出す。「甥っ子は……過激すぎるな」
「そうかもしれない。だが、あれほどの怒りを抑えられる者はいない」
カデットは頭を抱えた。
「このままでは済まん。帝国も神聖教国も黙ってはいない。これは戦の火種になる」
ルークスは静かに頷いた。
「だから早めに知らせる必要がある。フリード殿とオデッセイ姉上に」
「すぐに手紙を出そう」
カデットが侍女を呼び、紙とペンを頼む。侍女は無言でそれを置き、頭を下げて去った。
ルークスはしばらく筆先を宙に止め、ため息をつく。「何から書けばいいのか分からん」
「隠さず、ありのままを書くしかない。後で取り返しがつかなくなるぞ」
カデットが言うと、窓の外では夕陽が街を赤く染めていた。人々の声と馬車の音、日常の匂いが確かにある。だが、この部屋だけは異質な静けさに包まれている。
「それと……カムシンとカテラのことだが、あの子たちは不幸な生い立ちだ。ビック領で穏やかに暮らせるようにと思っていたのに、まさかこんなことになるとはな」
「気にするな。お前の判断は正しかった。俺たちも力を尽くす」カデットはそう言い、ルークスの手紙に自分の署名を加えた。
「カデット兄……ありがとう」
「礼はいい。家族だからな。それに――」少しだけ口元が緩む。
「甥っ子のやることには慣れておいた方がいいだろう、ただ、いきなりこれだと胃が痛い」
ふっと小さな笑いが漏れた。だがそれも束の間、蝋燭の火が揺れ、薄闇が部屋を包み込む。
ルークスは呟いた。「この静けさ、長くは続かないだろうな」
「だな。嵐が来る」カデットの声には確信があった。
その夜、バネット商会の本店から、ビック領へ向けた急使が闇の中を駆け出した。そして、明日の朝に出立する帝都のバネット商会への定期便に、ヴェゼルたちが無事にノアへ着いたことを連絡してもらうことにした。
誰も知らないまま、その手紙は、帝国の運命を揺るがす最初の一通となった。




