第231話 ノアへ01
馬車には、ヴェゼルとルークスとサクラが乗っている。他の人は後続の馬車に乗ってもらっていた。
そして、ヴェゼルは、ずっとヴァリーの冷たくなった体を抱きしめていた。頬に触れるその肌の冷たさが、現実を突きつけてくる。それでも、手を離すことができなかった。
沈黙の中、ルークスがそっと膝をつく。「……ヴェゼル、もう……」
返事はない。ヴェゼルの腕は硬く、まるで凍りついたようにヴァリーを抱え続けていた。サクラが涙をぬぐいながら小さく震える声で言う。
「ヴェゼル……ヴァリーは……」
その言葉に、彼の瞳が微かに揺れる。風が吹き、血の匂いと焦げた土の臭気が漂う。遠くで馬のいななきが響いた。ようやくヴェゼルは息を吸い、かすれた声で答えた。
「……わかってる」
そして、ゆっくりとヴァリーの体を収納箱へと入れる。その瞬間、魔力が静かに揺れ、淡い光が箱の中で消えた。ヴェゼルの手が、震えていた。
ルークスは深く息を吐き、冷静な声で言う。
「ここに留まるのは危険だ。帝都に戻れば、すぐに聴取があるだろう。だが……この状況では、戦いの真相を説明するのもな……だが、かと言ってトランザルプ神聖教国が関わっているから、帝都への報告はしないとな…」
「……どうするつもりですか?」ヴェゼルの声は低く、乾いていた。
ルークスは地図を広げる。焦げた紙の端が、風にひらりと舞う。
「バネット商会のオヤジを頼る。バネット商会の名前なら皇妃様にも報告できるだろう。ヴェゼルとヴァリーさんがトランザルプ神聖教国のクルセイダー三百人に襲撃され、それを全滅させたこと。そして……ヴァリーさんがその戦いに巻き込まれて亡くなられたことを伝えてもらおう」
ヴェゼルは無言でうなずいた。その顔には、もはや怒りも悲しみもなかった。ただ、感情が燃え尽きた後の静寂があった。
ルークスはすぐに手紙を認めて、護衛四人のうち、二人を前に出す。「君すぐに帝都へ向かってほしい。オヤジに伝えてくれ。皇妃様への報告を最優先に」
「わかりました!」二人は夜明けの道を駆けていった。鉄の具足の音が遠ざかると、残った者たちの息づかいだけが重く響いた。
ルークスが振り返る。「ヴェゼル、帝都へは戻らん。ノアへ向かおうと思う」
「ノア?」とサクラが問い返す。
「クオン伯爵の領都だ。そこにうちの本店がある。兄のカデットがいるから、そこで今後の話をしよう。ビック領にも急いで連絡しないとな。ここから距離は三日。途中に補給所もある」
ヴェゼルは視線を遠くに向けたまま、静かに頷いた。何も言わない。何も、感じていないようだった。
ヴェゼルが一人にしてほしい。と言ってきた。
サクラは躊躇するが、ルークスに掴まれて、しぶしぶそれに従う。そして、ルークスも後続の馬車に乗り込む。護衛二人は馬車の御者席に移動してもらった。
後続の馬車ではカテラが、ステリナの背にしがみつく。震える手が離れない。カムシンがそっと彼女の肩を抱いた。「怖かったな……大丈夫だ、もう大丈夫。誰も来ないよ」
その声にも、カテラは返事をしなかった。ただ、ヴァリーの最期を見た瞳が、どこか焦点を失っていた。
沈んだ空気を断ち切るように、ルークスが声を上げる。「サクラ、出てきてくれ」
その名を呼ばれ、今はルークスのポケットから出てきたサクラが姿を現した。妖精の羽が淡く光り、風に揺れる。彼女の顔には疲労と悲しみが滲んでいた。
「……呼ばれたから、来たけど」
ステリナとカムシン、それにカテラの三人は息を呑んだ。目の前にいるのが本物の妖精だと理解した瞬間、誰もが言葉を失った。
ルークスが告げる。「紹介が遅れた。彼女はサクラ。ヴェゼルと……ヴァリーの……友人だ。皆、仲良くしてくれ」
サクラは頷いた。いつもの元気はないがそれでも精いっぱい挨拶をする。
「私は闇の妖精サクラよ。ヴェゼルの婚約者! ヴェゼルの3…………」
その瞳に、次に何かを言いたい気持ちが溢れていたが、結局、何も言葉にできなかった。
そして、馬車の車輪が軋む音が響く。三日先のノアを目指して、彼らは動き出した。
ヴェゼルはその揺れの中でも、ひとことも喋らなかった。視線はただ一点――灰色の空の向こうを見つめ続けていた。
ノアへ向かう道中は、驚くほど静かだった。三日間、何も起こらず、風の音と馬の蹄だけが響く。
ノアへの移動2日目。さすがに、一人きりではヴェゼルが心配なので、カムシンとカテラとステリナが同乗した。
カテラはようやく時折笑うようになり、ステリナとカムシンのそばで疲れたのか、すやすやと寝ている。
カムシンは何かを言いたげにヴェゼルを見たが、その視線は届かない。彼はずっと窓の外を見つめたまま、何も口にせず、何も飲まず、ただ沈黙していた。
「……このままじゃ体がもたないですよ」
ステリナが呟くと、サクラが心配そうに頷く。
そして、サクラがつぶやく。「私だけでは、ヴェゼルの心までは届かないのね……」
やがて三日目の夜明け、ヴェゼルの体は限界を迎えた。
荷台の揺れの中で、彼は静かに目を閉じ、そのまま気を失った。眠っているように見えたが、顔色は青白く、息も浅い。ルークスは無言で彼を支え、馬車の速度を上げた。




