第230話 ヴェゼル一行を阻むもの05
「……ヴェゼル様、ありがとう。あなたに会えて、嬉しかった。私……幸せだったの」
ヴァリーの唇が微かに動き、震える声が漏れた。彼女の手はヴェゼルの胸に触れ、かすかに力を込める。砂利を踏む音、鎧の軋み、誰かの息づかい――すべてが遠く、凍りついた空気に鋭く響いた。
ルークスの叫びがその静寂を破るが、ヴァリーの瞳は穏やかに、微笑を浮かべていた。
「私たちの…子どもが……見たかった」
その言葉は風に溶けるほど儚く、けれど確かに彼の胸に届いた。
ヴァリーは最後にヴェゼルの顔を見つめ、何かを悟ったように目を見開き、掠れた声で呟く。
「……ごめんね、………………え?…光……希」そのつぶやきは、誰にも聞こえない。
その瞬間、空気が裂けるような音もなく、ただ世界が止まった。ヴァリーの体が静かに沈み、砂利の上に淡く散る血が夜気に染みていく。命の灯が、小さく、しかし確かに消えた。
ヴェゼルは膝を崩し、ヴァリーの身体を抱きしめた。砂利の冷たさと血の温もりが手のひらを通じて交錯し、現実の重みを突きつけてくる。嗚咽と悲鳴が遠くに重なり、世界が濁り、音が遠ざかっていく。
「……大丈夫だ、ヴァリー。俺がいる」
掠れた声でヴェゼルは呟いた。涙は出ない。ただ、胸の奥に焼けつくような熱が渦巻いている。
「お前は……喜ばないだろうが……必ず復讐してやる」
その言葉には怒りでも憎しみでもない、ただ確かな決意があった。
静寂の中、エスパーダとキャリバーが歩み寄る。キャリバーが震える声で何かを叫ぶが、ヴェゼルの目がその瞬間、冷たく彼を射抜いた。
「お前も罰を受けろ。収納――左、右肘関節」
声と同時に、肉が引き裂かれる音もなく、キャリバーの両腕が力を失って地面に落ちた。彼は絶叫し、聖衣が擦れる音とともに地に崩れ落ちる。砂利が弾け、血が散り、声が途切れる。
エスパーダを護っていた最後のクルセイダーたちが反射的に剣を構える。しかし、ヴェゼルの低い呟きが響いた瞬間――「収納」――その声が彼らの息の根を止めた。空気が静まり返り、倒れた鎧が乾いた音を立てる。ヴェゼルの視線は氷のように冷たく、もはや誰にも止められなかった。
エスパーダがかすれ声で前に出る。
「私は……ご存知だとは思いますが……トランザルプ神聖教国…の主教でした……でも、知らなかったのです……これが総主教の命令だなどとは……」
その震えた声に、ヴェゼルの返答は一言だった。
「収納――左肘」
金属音のような軽い衝撃のあと、エスパーダの左腕が関節から下を失い、地面に落ちた。血の色が砂利に吸い込まれる。エスパーダは息を詰まらせ、呻きながら崩れ落ちる。
ヴェゼルは低く言い放つ。
「お前は教国への伝令だ。命は助ける。その代わり、この惨状をすべて教国に伝えろ。そして、俺の襲撃を恐れながら生きていけ。…………じきに…みんな殺すがな」
そして、徐に左手に握っていた小さな収納箱を無造作に逆さにすると、蓋が開く。
ボトボトと何かが大量に落ちた。――肉塊と血、心臓だ。
クルセイダーたちの心臓、約三百個。肉の音が砂利に混じり、夜の空気が血生臭い腐臭で満ちていく。エスパーダはその光景に耐えられず、胃の底から嘔吐した。
ヴェゼルは淡々とした声で言う。
「これが、俺たちに刃を向けた報いだ」
言葉を区切り、ゆっくりとエスパーダに近づいて顔を近づける。
「――だが報いはまだ終わらない。まだまだ続く」
その声は氷よりも冷たく、しかし確実に人の心を凍らせる響きを持っていた。エスパーダの背筋に、電流のような戦慄が走る。
左腕を押さえ、俯くエスパーダの聖衣には砂利の細かい擦れ跡が残る。戦闘の爪痕がその体に刻まれ、彼の視線は虚ろだった。しかし、ヴェゼルの耳には届かない。鋭い声が、凍りついた戦場の空気を切り裂く。
「今後、俺の前に現れるトランザルプの聖職者は、すべて排除する。これは決定事項だ。そして、俺はたったいま、トランザルプ神聖教国へ宣戦布告する」
「あらためて言う。教国の聖職者はこの世に塵一つ残さずに殲滅する。これは絶対だ。必ず俺の手で遂行する」
その声は冷たい風のように周囲を貫き、砂利を踏む音、鎧の響き、微かな血の匂いすら消し去る。エスパーダは初めて、底知れぬ怒りを体で感じた。
ヴェゼルは元は理性的な人物だった。普通に話しあって相談していれば、お互い妥協点も見出せただろう。しかし、こうなってしまえば、もうどうあっても無理だ。判断を超えた圧倒的な力に、下半身の感覚すら震えて股間を濡らしていることに気づく。トランザルプ神聖教国は、触れてはならない禁忌に手を伸ばしてしまったのだ。
目の前に広がる圧倒的な魔力と、凄絶な戦場の光景。倒れた数百のクルセイダーの死体、絶叫の残響、血の匂い、砂利と鎧の無惨な軋み。これを前にして、エスパーダは理解した。
たとえ何千何万が襲いかかろうとも、最後に立つのはヴェゼルであり、今日の惨状は単なる予兆に過ぎないと。あの『闇の妖精が一夜にしてスクーピー精霊王国を滅ぼした』ように、ヴェゼルは教国をも簡単に滅ぼすだろう。
ルークスの指示で馬車の準備が整い、負傷者や倒れた仲間たちをまとめて撤収が始まる。ルークスは無言で壺の蓋を外し、心臓の山に何かの液を注いだ。次の瞬間、火が放たれる。
轟と燃え上がる炎が、血の匂いを焼き尽くすように夜を照らした。隣で立ち尽くすエスパーダの顔だけが、炎に照らされて蒼白だった。
ヴェゼルは重いヴァリーの亡骸を抱き上げ、一度だけエスパーダの虚ろな目を見据えた。砂利の感触、鎧のわずかな衝撃、血の匂いが現実を強く伝える。
「お前たちを忘れない。待っていろよ。必ずまた会おう。その瞬間がお前らの滅びの時だ」
そして、馬車がゆっくり動き出す。後ろに残る荒れた峠道には静けさが戻った。
しかし、その静けさは喪失の熱で燃えるように満ちていた。見渡す限りの死体、地面に倒れたクルセイダーたち。生き残ったのは、両腕を失ったキャリバー、動けぬ肉塊と化した団長、そして左腕を失ったエスパーダだけだった。
12人対300人。いや、実質は1対300人だろう。ただただ圧倒的な殺戮であった。
エスパーダは左腕を押さえ、虚ろな目で馬車を見送るしかなかった。
互いに歩み寄る余地は、あの瞬間に未来永劫断ち切られたのだと悟った。




