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第229話 ヴェゼル一行を阻むもの04

――血と火の匂いが、焼けた大地に染みついていた。


ヴェゼルは動けなかった。耳鳴りがする。視界の端で、ヴァリーが崩れ落ちるのが見えた。彼女の髪が、土にまみれ、風に散っていく。


「……ヴァリーさん?」


声にならなかった。唇が震える。胸の奥で何かが潰れるような音がした。周囲の喧噪が、まるで遠くの水の底から聞こえるようにぼやけていく。剣戟の音も、悲鳴も、命令の声も、全部が遠のいていく。


カテラが叫んでいるのが見えた。誰かが駆け寄ろうとしている。しかし、ヴェゼルの世界にはもう音がなかった。ただ、ヴァリーの倒れた姿だけが、鮮明に映っている。


その声は砂利と鎧の衝撃音に飲まれ、彼は駆け寄りヴァリーを抱きしめる。


「ヴァリーさん!!」


ゼトロス団長の声がそれを断ち切る。「時間切れだ。強制的に排除せよ!」


騎士たちの鎧の鳴動が嵐のように押し寄せ、ルークスが倒れ、護衛も次々と地に伏した。ヴェゼルの背中に何人もの手がかかり、押し倒され肋骨が軋む音がした。


鉄の手甲が頬を打ち、土と砂利が混ざった感触が顔に貼りつく。息を吸うたび、鉄と血の匂いが肺に流れ込む。


視界の端で、ヴァリーが倒れたまま動かない。その身体を、調べようとしたのか別のクルセイダーが無造作に蹴り転がす。


「やめろっ!!!」


ヴェゼルの喉から、獣のような叫びが漏れた。しかし彼の体は、なおも複数の鎧に押し潰され、指一本動かすこともできない。


拳を握り締め、爪が掌を裂く。痛みがあっても構わなかった。ずっと左手に握っていたその小さい収納箱をぎゅっと握りしめる。


「放せっ……放せぇっ!!」


怒号は戦場の喧騒に飲まれる。腕をねじられ、地面に押さえつけられ、指先がヴァリーに届かぬまま力を奪われる。胸の奥に溜まっていた何かが、音を立てて切れる。


背後で、クルセイダーの笑い声が響いた。


「おお、勇敢な仲間だったな。女のくせに、なかなか粘ったじゃないか。」


ヴェゼルの肩がわずかに震えた。だが顔は動かない。瞳はただヴァリーだけを見つめている。


「お前も、次に送ってやろうか?」


その言葉に、ルークスが拘束を振り解き、絶叫するように剣を振るった。金属がぶつかる音。火花が散る。誰かが叫び、誰かが倒れた。だがヴェゼルの耳には、まだ音が戻らない。


――そして、ヴェゼルの瞳が赤く光る。


その光は怒りではない。理性の終焉の色。世界の輪郭がぼやけ、心の奥の虚ろに、冷たく、重い、破壊の力が静かに満ちていく。


ヴェゼルはゆっくり顔を上げる。笑っているかのような口元だけが、異様に静かに、微かに歪んでいた。


「収納…心臓」その呟きと同時に、収納魔法が解き放たれる。


黒い光は、世界の底から湧き上がるかのように膨れ上がり、すべてを飲み込もうと迫った。鎧や砂利の衝撃音、血の匂い、荒れた森の空気――すべてがその光に溶け込んでいく。


周囲でヴェゼルたちを拘束しようとしていたクルセイダー、ヴェゼルがそれらを見た瞬間、一様に胸を押さえ、うめき声をあげて口から血を吐き地面に倒れていく。


そして、彼の世界では、風も、悲鳴も、すべてが静止していた。


――世界の音が、消えた。


動けない。呼吸が浅い。自分の体が自分のものではないようだ。ルーカスが何かを言っている。だが、その口の動きだけが見えて、意味を結ばない。


何かが、完全に壊れた音がした。――ヴェゼルの世界が、音を失ったまま、ゆっくりと崩れていく。






ヴェゼルは周囲を一瞥してから呟く。



「収納――心臓、見える敵すべて」



声は冷たく、理性を切り裂くような確信を帯びて響いた。戦場の空気が一瞬で引き締まり、鎧を纏うクルセイダーたちの身体に異様な緊張が走る。


軋む鎧の音、踏みしめる砂利、遠くで蹄が踏み鳴らされる。すべての音が濃密な圧力となって戦場に積もり、呼吸する間も許さない。


ある者は目を見開き、膝を折り、手が震えて剣を握る力を失う。別の者は呻き声を漏らし、胸を押さえながら膝をつき、鎧の板が鋭く軋む。空気は重く、微かに漂う血の匂いが戦場を支配する。


存在の輪郭は消え去るのではなく、まるで世界から引き抜かれるかのように薄れていった。倒れた騎士たちの鎧の隙間から、胸部だけが異様に陥没し、生命を失った様子が見て取れる。


「な、なにを……」


ゼトロス団長の声は震え、顔は蒼白だった。必死に仲間を鼓舞しようと声を張り上げても、周囲の大多数はすでに膝を折り、地面に崩れ落ちている。口から血を吐き、すでに絶命しているようだ。砂利の上で倒れた鎧が鳴らす衝撃音が、時間が止まったかのように戦場に反響した。


「お前は悪魔か! 残りの者はこの場でこやつを拘束しろ! 殺しても構わぬ! いや、生かしてはならぬ!」


団長の叫びが、倒れた仲間たちの上に重く降りかかる。しかし、絶望の渦中で響くヴェゼルの声はさらに低く、鋼のように冷たく、全員を無慈悲に切り裂いた。


――「お前らは全員、殲滅する」


言葉が戦場に落ちるたび、胸を押さえ、口から血を流し、鎧の軋みや呼吸の乱れさえも静寂に溶け込んでいく。震える身体は鈍く倒れ込み、砂利を踏む音すら消え去った。最後に膝が折れ、表情が崩れ落ちる。


残った騎士たちも次々と動きを失い、地面に伏せる。鎧の衝撃、呼吸、微かな血の匂い――凍りついた時間の中で、現実の重さが胸を押し潰す。


ヴェゼルはゆっくりと後退し、倒れた者たちを見下ろした。喉元で何かが鳴り、絶望と怒りが混ざった低い唸りが漏れた。200人以上のクルセイダーが、十秒もかからず地面に倒れた。


ヴェゼルはゆっくりと、ただ一人立っているゼトロス団長へと歩を進める。団長は狂乱状態で、まだ叫ぶ。


「クルセイダーはわしの元に集まれ!」


だが、周囲に立つ者はもはやいない。地面によこたわり、呻き声すら聞こえない鎧だけが残る戦場。


「この化け物が!」


叫びながら剣を構える団長に、ヴェゼルは虫ケラを見るような視線を向ける。一瞥したその目は冷たく、残酷な決意を孕んでいた。


――「お前はただでは殺さんからな。苦痛を死ぬまで味わえ」


その瞬間、ヴェゼルは両肩と両太ももの骨を収納する。団長は絶叫を上げる。


手足はまだ体に付いているが、ぐにゃりと不自然に曲がり、まるで芋虫のように蠢くばかりで、もはや戦うことはできない。鎧が軋み、地面に擦れる音が生々しく響き渡る。


だが、団長の惨状を目にした直後、ヴェゼルの視線は戦場の一点に釘付けになる。ヴァリー――か細い体を砂利の上で丸め、浅く息をする。瞳はゆっくり曇り、現実と意識の間で揺れていた。


ルークスが必死に何かを叫んでいるが、戦場の凄まじい静寂の中で、その声はヴェゼルの耳に届かない。


ヴェゼルは転びながらも砂利の上を駆け、彼女の元へ飛び込む。両手で抱き上げると、伝わる微かな血の熱と砂利の衝撃が、生々しい現場の感触を強烈に際立たせる。


ヴァリーの唇から漏れる言葉は、風のように儚く、耳に届くか届かないかの微音。だが、ヴェゼルはそれを確かに感じ取り、胸に抱きしめたまま戦場を見渡す。


生き残りはもはやいない。砂利と鎧の軋み、微かに漂う血の匂い、呼吸の乱れ――すべてが戦場から溶け去り、残るのは静寂と絶望。ヴェゼルの抱えるヴァリーは、世界の喧騒のなかで、唯一の生を象徴する存在だった。



ヴェゼルはゆっくりと立ち止まり、抱き上げたヴァリーを胸に押し当てる。砂利の上に残る鎧の欠片や血の跡が、光を受けて鈍く輝く。視界には誰もおらず、時間が止まったかのように戦場が静まり返っていた。


彼の瞳に映るのは、倒れ伏した数百の騎士たちの姿。鎧は変形し、剣は地面に突き刺さり、無数の呼吸の痕が静かに止まっている。胸の奥に、激しい鼓動と共に、破壊の余韻がひたひたと広がる。指先から伝わるヴァリーの微かな血の熱は、絶望の海に浮かぶ唯一の灯火のようだった。


「……ヴァリーさん」


その声はかすかに震え、砂利を踏む音と混ざり合わずに、二人だけの世界に静かに溶けていく。ヴァリーの肩がわずかに揺れ、吐息が漏れる。身体は細く、戦場で受けた衝撃に震えているが、それでも生きている――その事実だけが、ヴェゼルの心に淡い安堵を落とした。


背後には、荒れ果てた戦場が広がる。鎧の残骸、血の匂い、砂利の感触――すべてが現実の重みとして胸を押し付ける。風は止み、鳥の声も消え、世界は静寂に包まれていた。


その静寂は恐怖ではなく、破壊を終えた後の静謐であり、彼の内側で怒りや憎悪を収束させるものだった。



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