第227話 ヴェゼル一行を阻むもの02
「……あれは」ルークスが振り返った。木々の影の向こう、銀白の光がちらちらと瞬いている。
太陽を反射しているのは、無数の鎧と槍の列だった。聖印の旗が幾重にもはためき、遠くから低く響く聖歌が、やがて大地そのものを震わせ始める。
その声は最初、風のうねりのようだったが、次第に層を重ね、重奏のように膨らんでいく。
「聖歌……?」ステリナが呟いた。次の瞬間、地鳴りが起きた。
それは、まるで山が息をしているかのような圧で森の奥から、聖なる軍勢が姿を現す。
白銀の鎧が一斉に陽光を跳ね返し、視界が白く焼け、槍の穂先がずらりと並び、整然とした列が峠の広場を包み込むように広がった。
――トランザルプ神聖教国、クルセイダー騎士団。数は三百を超える。
騎馬と歩兵が規律正しく動き、金属の音が波のように押し寄せる。全員の鎧には聖印が刻まれ、彼らの吐く息までもが祈りのように見えた。
「囲まれた……?」
カムシンが息を呑み、隣のカテラを抱き寄せる。震える二人の前にステリナが立ちふさがり、ヴェゼルを中心に自然と陣形を取った。
ヴェゼルの後ろにヴァリーとルークス。さらにその背に、エスパーダとキャリバー。護衛の四人が剣に手をかけ、前へ出ようとしたが、ヴェゼルが左手を静かに上げて制した。
「まだ動かないで」
その声は、驚くほど冷静だった。空気の温度さえ下がるような鋭さがあった。ヴェゼルの左手の中、収納箱が淡く震える。
その奥に潜むサクラが微かに息づいているのがわかる。――今は、出ないで。
小声でそう呟くと、箱の奥から小さな気配が応えるように揺れた。
ヴァリーが眉を寄せ、低く問う。「……どういうことでしょうか」
ヴェゼルは短く息を吸い、目を細めた。「わかりません。とりあえず、相手の話を聞きましょう」
やがて、一団の中央が割れ、蹄の音とともに、一頭の馬が前へと進み出る。その背にいたのは、白銀の鎧をまとい、背に長槍を負った壮年の男。四十前後か。
灰色の髪が風に揺れ、鋭い眼光が一行を貫く。鎧に刻まれた聖印は、他の兵よりも一段深く輝いていた。
「我は、トランザルプ神聖教国クルセイダ騎士団第一方面軍――ゼトロス団長である!」
男は馬上で高らかに声を張り上げた。その声は空気を裂き、峠の端まで反響し、木々の葉を揺らす。
「スピアーノ総主教の命により、その方らが攫った“妖精殿”を保護しに参った!」
その言葉に、一同が凍りつく。ヴァリーの眉が跳ね、ルークスの手が剣の柄に滑った。
「ただちに妖精殿を引き渡せ!従わぬ場合、我らクルセイダー騎士団は聖務に則り、貴様らを強制的に排除する!」
一瞬の静寂。吹き抜ける峠の風が、落ち葉を巻き上げた。金属の擦れる音すら、止まったように感じられる。
「攫ったですって……!?」ヴァリーが声を上げた。
「我々が妖精を――だと?」ルークスも怒声をあげる。
怒気が広場に満ち、今にも剣戟が始まりそうな空気。だが、ヴェゼルは静かに手を伸ばし、二人を押さえた。そして一歩、前へ出る。
「……話を聞いてもらえますか」その声は低く、しかし不思議なほど通る。
兵たちの息遣いの中で、ヴェゼルの声だけが澄んで響く。
「私はビック領、フリード騎士爵家の嫡男――ヴェゼル・パロ・ビックと申します。妖精を攫ったなど、身に覚えはありません。この一行の中に、そんな者はいない」
ゼトロスの眉がぴくりと動いた。ヴェゼルは怯まず、まっすぐその瞳を見返す。
「それに、トランザルプ神聖教国は他国です。もし本当に誤解や調査があるのなら、通常は外交手順として――バルカン帝国を通じ、私の父フリード騎士爵に連絡があるはずです」
一呼吸を空けて、再度問う。
「今回の遠征は、アネーロ・トゥエル・フォン・バルカン皇帝陛下の正式な許可を得て行動しておられるのですか?」
峠に再び、静寂が落ちた。それは単なる抗弁ではない――帝国貴族としての「正論」だった。
騎士たちの中に動揺が走る。一部の者が互いに目を見合わせ、わずかに槍を下げる。だがゼトロス団長の顔には、明確な怒気が浮かんだ。
「貴様、我らの聖務に口を挟む気か!」
その声は怒号というよりも、呪詛のようだった。瞳には狂信の炎が宿る。
「スピアーノ総主教の命に逆らおうというのか! この――ハズレ魔法使いのスケコマシ風情がッ!」
その侮辱に、ルークスが剣に手をかけ、鋭く叫ぶ。「てめぇ、今なんて言った!」
ヴァリーの瞳も炎のように光る。だがヴェゼルは再び手を伸ばし、二人の肩に触れた。
「冷静に」その一言で、二人の動きが止まる。
ここでエスパーダが、この諍いを仲裁しようと前に出ようとするが、キャリバーに押し止められた。
「エスパーダ様、今ではありません。もう少し話の推移を見守りましょう」
しぶしぶエスパーダはそれに従う。
そして、ヴェゼルはゼトロスを見据えたまま、静かに言った。
「我々に敵意がないのは明白でしょう。ですが、いきなり三百もの兵で囲むのは、ずいぶんと過剰な“保護”の仕方ですね」
その皮肉を込めた言葉に、ゼトロスのこめかみがぴくりと動く。周囲のクルセイダーたちが一斉に槍を構え、鎧の音が一斉に鳴った。
空気が緊張の糸で張り詰める。風のざわめきが祈りのように不吉に響いた。
ヴェゼルの心臓が、静かに――しかし確実に、速く脈打つ。
――話し合いで済む相手ではない。
胸の奥の直感が、冷たく鐘を鳴らしていた。




