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第216話 お風呂に入ろう

散々ごねた末、ようやく浴場に押し込まれたエスパーダが出てきたのは、それから一刻ほど経った頃だった。


湯気の中から現れた彼を見て、全員が息をのむ。――誰だ、あれ。髪は艶やかに流れ、長年の旅でこびりついていた埃も垢もきれいに落ちている。頬の陰影が際立ち、伸びかけていた髭もすっかり剃られていた。


光を受けた黒髪がさらりと肩をかすめ、澄んだ瞳がこちらを見渡す。その姿はまるで別人のようだった。


 「……王子様、みたい……」侍女のひとりがぽつりと呟く。


だが問題は服だった。風呂上がりに貸されたルークスの服は、どう見てもサイズが合っていない。袖は短く、裾は膝下で止まり、ズボンも窮屈そうに張り付いている。無理に着込んだせいで、布が悲鳴をあげていた。


 「……なんだよ、あの足の長さ……俺の服が七分丈になってるじゃないか……」ルークスが呆れ混じりに言うと、エスパーダは困ったように肩をすくめ、静かに尋ねた。


「……身を清めましたが、どうでしょう?」その控えめな声に、ルークスは堪えきれず腹を抱える。


「はははっ! 見違えたよ、エスパーダさん! 別人だ! 若返ってるじゃないか!」


 隣でヴァリーが微笑みをこぼす。


「ふふっ……いいですね。今度こそ“聖職者”らしく見えますよ」


エスパーダは髪を指で梳きながら、少し照れくさそうに笑った。


「聖職者らしく、ですか……。人は、見た目によるものですね」


その柔らかな笑みを見て、侍女たちは息をのむ。――きれいすぎる。誰もが、風呂の効果を疑う余地もなかった。


 あの無骨で影のようだった男が、今は洗い立ての髪を撫でつけ、さっぱりとした顔で廊下を歩いている。ルークスなどは廊下の角で二度見して「やっぱり別人だろ」と呟いたほどだ。


 夜になり、ベンティガ商会の三階にある食堂は、香ばしい肉とパンの焼ける匂いで満たされていた。長いテーブルにはロースト肉、焼き野菜、湯気を立てるスープ、そして焼きたてのパン。


忙しなく動く侍女たちのあいだを、笑い声がやわらかく流れていく。ヴァリーがグラスを掲げるようにして言った。


「さぁ、遠慮せずにどうぞ。ここでは“遠慮”は禁止ですからね」


 エスパーダは席につくと、静かに祈りの言葉を唱え、短く手を合わせた。ヴェゼルも目を閉じてそれに倣う。


「お口に合うといいのですが」とベンティガが声をかけると、エスパーダはスープを一口すくい、しばし黙ってからぽつりと呟いた。


「……温かい」それが褒め言葉なのかどうか、誰も判断できず、一瞬空気が止まる。


だが次の瞬間、彼は静かに椀を持ち上げ、「……おかわりを」と言った。


その一言で侍女たちの表情が一気にほころぶ。「はいっ、すぐに!」


 あの寡黙な男が、わずかに口元を緩めている。その光景に、テーブルの空気はふんわりとほどけていった。ルークスがヴェゼルを肘でつつく。


「なぁ、ヴェゼル。あの人、案外かわいいとこあるな」ヴェゼルは苦笑を浮かべて答える。


「……まぁ、そうですね」そのとき、ヴェゼルのポケットから「ぐぅ〜」と微妙な音がした。


ルークスが眉をひそめる。「……今、なんか鳴らなかったか?」ヴェゼルは真顔のまま答えた。


「……気のせいです」――(サクラ、今は黙っててくれ……!)心の中で必死に訴えるヴェゼル。ルークスはそれを察したのか、くくっと肩を震わせて笑う。


 エスパーダの変化も、ヴェゼルの苦労も、どこか温かく、穏やかな笑いを誘った。



 ポケットの中から、かすかに「ぷい」と不満の気配が返ってきた。


ヴェゼルは苦笑しながらパンをちぎる。


――サクラ、あとでやるから、今は我慢してくれ。そんな静かで温かな食卓の空気が流れていた。だがそのとき、玄関のほうからざわめきが起こる。


人の声と足音が混じり合い、次第にこちらへ近づいてくる気配。やがて食堂の扉がノックされ、執事が少し緊張した面持ちで顔を覗かせた。


 「エスパーダ様にお客様が――」


 その一言で、場の空気がぴんと張りつめた。エスパーダは椅子を引き、静かに立ち上がる。「……私に?」


 扉が開くと、そこに立っていたのは一人の若い男だった。十代の終わりほど。浅黒い肌には旅塵がこびりつき、長い道のりの疲れがそのまま刻まれている。


それでも瞳だけはまっすぐに光り、まるで祈るようにエスパーダを見据えていた。


 「――ようやく……ようやくお会いできました、エスパーダ様!」


 震える声が響いた瞬間、青年はためらうことなく駆け寄り、エスパーダの腰にしがみついた。


「どうして……どうして私を置いて行かれたんですか!」


 その場にいた全員が固まった。ルークスはパンを口に入れたまま凍り、ヴァリーが小さく「え……?」と漏らす。抱きつかれたままのエスパーダは、動くこともできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。


 ヴァリーが眉を寄せ、そっとヴェゼルの耳元に囁く。


「……あれ、恋人ですかね? 教会には…そういう嗜好の方もいると聞きますし…」


 ヴェゼルは目を瞬かせ、苦笑を浮かべながら答える。


「いや……たぶん違うと思うよ……」


 張り詰めた空気の中で、誰もが言葉を失ったまま。食堂の温かな灯りだけが、妙に静かに揺れていた。







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