第215話 エスパーダ 拉致される
帝都の朝は、いつもより静かだった。バネット商会の三階、広く取られた客室には、柔らかな陽が差し込んでいた。
ヴェゼルたちはこの屋敷に滞在していた。ヴェゼルとヴァリー、カムシン、そして聖職者エスパーダ。
カテラの治療をして、もう四日目になる。この日も、朝一番にエスパーダがやって来た。
いつものように黙礼して、カテラの枕元に膝をつく。ヴァリーとヴェゼル、そして兄のカムシンが息を呑んで見守るなか、エスパーダは手をかざして治療をはじめる。
白い光がふわりと溢れ、部屋の空気がやさしく震える。光はやがて、カテラの胸もとに吸い込まれるように沈んでいった。やがて――カテラのまぶたが、ぴくりと動いた。
「……う、ん……ここ……どこ?」
その小さな声を聞いた瞬間、兄のカムシンが弾かれたように立ち上がった。
「カテラ! カテラ、目が覚めたんだな!」
その声には涙が混じっていた。数日前、カテラは生死の境をさまよっていた。一度だけ意識を取り戻した後は、こんこんと眠り続けていたのだ。
「……お兄ちゃん?」
カテラが掠れた声で呼ぶ。カムシンは大きく頷き、泣き笑いしながら妹の手を取った。
「もう大丈夫だよ。あの家には戻らなくていいんだ。ヴェゼル様が、俺たちを引き取ってくれるって言ってくれたんだ」
ヴェゼルが頷くと、ヴァリーが優しく笑った。
「カテラちゃん、ヴェゼル様の領地にはあなたと同じくらいの妹がいるの。きっとすぐ仲良くなれるわ」
カテラの瞳が潤む。「じゃあ……もう、あそこへは帰らなくてもいいの?」
「ええ」ヴァリーは微笑みながらそっと抱きしめた。「もう誰も、あなたに痛いことなんてしないわ」
その言葉に、カテラの体から力が抜けた。
小さなすすり泣きがヴァリーの胸元に滲む。ヴァリーは髪を撫でながら、柔らかく囁いた。
「元気になったら、みんなでヴェゼル様の領地へ行くのよ。お花畑でピクニックして、森を散歩して、楽しく過ごすのよ」
カテラはこくりとうなずき、微笑んだ。その笑顔に、ヴェゼルもエスパーダも、そっと息をついた。
――なんとか命を取り留めたのだ。
まだ体を起こすのも難しいカテラに、エスパーダが優しく告げる。
「少しずつで構いません。体を動かす訓練をすれば、歩けるようになりますよ」
「ほんとに? じゃあ、やる!」カテラの無邪気な返事に、エスパーダの口元がかすかに緩んだ。
それは彼がここ数年、ほとんど見せたことのない表情だった。診療が終わり、部屋を出ると、カムシンが改めて頭を下げた。
「ヴェゼル様、エスパーダ様……本当に、ありがとうございました」
深々と、胸の奥からの礼だった。エスパーダは言葉に詰まり、しばし黙った。
どう返していいのか分からない。そんな彼にヴェゼルが笑って言った。
「うん、でも、わかった、でも、よかったね、でも、なんでもいいんじゃないですか?」
ベンティガ商会長――ヴェゼルの祖父には、すでに伝えてある。「聖職者がひとり、滞在するかもしれない」と。
祖父は二つ返事で快諾した。『孫のやることに間違いはない! 孫の連れてきた人に悪い人はいない!』
――うん、信頼が重い。ヴェゼルは心の中で小さくため息をつく。
エスパーダは少し考えて、ぎこちなく口を開く。
「……ありがとう」カムシンが驚いた顔をし、ヴァリーが吹き出した。
「え、言うのそっちですか!? 今のは逆でしょう!」
一瞬の沈黙のあと、全員が笑い出した。エスパーダは照れたように眉をひそめたが、その笑い声が胸の奥に温かく響くのを感じていた。
――この感覚、なんだろう。
ただの感謝の言葉に、こんなにも心が満たされるとは思わなかった。そのとき、ヴェゼルが真面目な顔に戻り、静かに言った。
「エスパーダさん。これからもカテラの治療をお願いしたいんです。他に何か用がなかったら、しばらくカテラを診てくれませんか? もちろん、報酬も滞在の手配もこちらで用意します。だから、できれば――しばらく、ここに滞在するのはいかがでしょう?」
エスパーダは少し逡巡した。自分が“この家に長く留まる”など、考えてもいなかった。
「私は……」と言いかけたそのとき。ヴァリーがぱん、と手を打った。
「はい、決まりですね! もうエスパーダさんはうちの大事なお客様です。こんな状態で放り出せるわけないでしょ」
「えっ、いや、私は別に――」
「却下! はい、そこの侍女さん、すぐお風呂の準備!」
瞬間、エスパーダの背中を後ろから押すヴァリー。
「このままじゃ泊められないわ! 聖職者とか関係なく、まずはお風呂! そして着替え!」
「いや、そんな、私は……!」
だが抵抗むなしく、侍女たちがどこからともなく集まってきた。一人の侍女がエスパーダの襟元を見て小声で言う。
「この方、今はちょっと見た目が……こう、むさ苦しいけど……私の見立てだと――磨けば絶対、光ります!」
「わかる! なんか素材はいいのよね!」
「髪洗ったら、きっと美形枠よ!」
「ひゃー、これは楽しみだわ!」
侍女たちが一斉に盛り上がり、もはや本人の意志などどこにも存在しなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は聖職者で――」
「大丈夫です! 聖職者もお風呂には入ります!」
「やめてください!服を引っ張らないで、私の法衣が――!」
わらわらと押し寄せる侍女たちに引きずられ、エスパーダは半ば強制的に風呂場へと連行された。
廊下の向こうから、彼の情けない声が聞こえる。
「うわああ、待ってください、私はまだ決心が――!」
その後ろ姿を見送って、ヴァリーが肩をすくめた。
「ふふ、やっぱり綺麗な顔してるもの。もったいないですよね、あのボサボサは」
ヴェゼルは苦笑しながら、呟いた。「……うん。あれはもう、抵抗しても無駄だね」
カムシンがぽかんと口を開けた。
「え、えっと……聖職者って、あんな感じでいいんですか?」
「いいのよ」ヴァリーがウィンクする。「この家に来たら、みんな丸くなるの」
笑い声が広がる三階の廊下。やがて風呂場の方から、「熱っ! ちょっと、これは熱すぎます! 一人で入れますから! わっ! そこは自分で洗います!」
という叫びが聞こえて、また全員が吹き出した。
帝都の朝に、久しぶりの柔らかな笑い声が満ちた。




