第214話 サクラと話す
昼下がりの光が、薄いカーテン越しに部屋へと差し込んでいた。
テーブルの上には、食べ終えた昼食の皿がいくつも並び、心地よい満腹の空気が漂っている。
ヴァリーが後片づけをしている間に、サクラはというと、床にごろんと横になって、すでに夢の中だった。
「食べたと思ったら、すぐ寝ちゃいましたね……」
ヴァリーが苦笑まじりに言うと、ヴェゼルも肩をすくめる。
「ほんとに、よく食べて、よく寝るよね。まあ、元気なのはいいことだけど」
やがて、サクラが目をこすりながら起き上がった。
「ん……おはよ、ヴェゼル、ヴァリー……」
寝ぼけ眼で挨拶をするサクラに、二人は思わず顔を見合わせて笑う。
「サクラ、今は“昼”だよ。昼食のあと」
「えっ、うそ……? もう夜かと思った……」
そんなやりとりのあと、ヴェゼルは少し表情を引き締めた。
「サクラ、ちょっと話があるんだ」
その声の響きに、サクラはぱちりと目を覚ます。ヴァリーもその場に残り、三人で座卓を囲んだ。どこか打ち合わせのような空気が流れる。
「もしサクラが嫌じゃなければ……なんだけど」
ヴェゼルは慎重に言葉を選びながら続けた。
「あのあとヴァリーさんとも話して、自分でもいろいろ考えたんだ。本当はもっと早く話すべきだった。でも、怖かった。サクラが僕を——いや、“収納箱”の僕を選んだ理由を聞くのが。サクラや精霊、妖精のことを何も知らないまま、ただ甘えていた自分が情けなくて」
少し間を置いて、静かに続ける。
「もし聞いたら、何かが壊れそうで、踏み出せなかった。でも、今は違う。君を本当に守るなら、知らなきゃいけない。……ごめん、サクラ」
ヴェゼルの言葉に、サクラはゆっくり顔を上げた。けれど何も言わず、視線を伏せる。代わりに、ヴァリーが優しく口を開いた。
「それで、これからどうなさるおつもりですか?」
「ブガッティ第一席にも“妖精の匂い”がすると言われた。それに、エスパーダさんにも言われたんだ。カテラを診たとき、自分に聖魔法が流れていて、カテラが僕と契約しているような状態だから治癒が早まってるって。自分には精霊か妖精の波がある、って。だから、ブガッティ第一席に会う機会があるなら、そこで直接、精霊や妖精のことを聞いてみようと思う」
ヴァリーは頷いた。
「それは良い考えです。知識はきっと、サクラちゃんを守る力になります」
しかし、サクラは沈黙を崩さない。心配そうにヴェゼルが名前を呼ぶと、サクラは小さな声で答えた。
「……怖いの。怖かったの、ずっと。ヴェゼルが“本当の私”を知ったら、離れていっちゃうんじゃないかって……」
その言葉に、ヴェゼルは迷いなく首を振った。
「そんなこと、あるわけないよ。今さらだろ? たとえ誰かがサクラを悪く言っても、僕は信じない。目の前にいるのが、僕の知ってるサクラだから」
「でも……」
「昨日も言ったよね。サクラが嫌がることはしない。でも、僕はまだ何も知らない。サクラが何者で、何を背負っているのかを知らないままじゃ、守ることもできない」
長い沈黙のあと、サクラは小さく息を吐いた。
「本当は、私が直接話したい。でもね、話せないの。『制約』があるの。…………………………『今は』境界を守らなきゃいけないって、決まってるの」
最後の方は尻すぼみで言葉にならなかった。
しかし、その声には、重く深い“何か”が滲んでいた。
ヴェゼルはすぐには意味を掴めなかったが、それでも穏やかに笑う。
「じゃあ、僕が聞くよ。いろんな人に。でも——何を聞いても、僕はサクラを嫌いになんてならないよ」
その一言に、サクラの肩が小さく震えた。唇が揺れ、やがて涙が頬を伝う。
「……ずるいよ、ヴェゼル。そんなこと言われたら、何も言えないじゃない……!」
涙を拭いながら笑うサクラ。その笑顔は、切なさと温もりを同時に湛えていた。
やがて、張りつめていた空気が少し和らぐと、ヴェゼルはふと表情を整えて、別の話題を切り出した。
「それと……エスパーダさんのことだけど」
彼は一度言葉を区切って、サクラとヴァリーの顔を順に見た。
「行くあてもなさそうだし、悪い人じゃないと思う。だから、カテラの治療の間だけでも、この家に滞在してもらおうかと思ってるんだけど……どう思う?」
サクラはしばらく考え込み、膝の上で手を組んだまま、小さく首をかしげた。
「……嫌ってわけじゃないけど」
「けど?」とヴェゼルが促すと、サクラは少し迷うように唇を噛んでから、ぽつりと続けた。
「うまく言えないけど、あの人から“精霊の気配”みたいなのを感じるの。空気の揺らぎとか、匂いとか……ずっと、精霊か妖精と関わってきた人の匂い」
その言葉に、ヴェゼルとヴァリーは思わず顔を見合わせた。
「精霊か妖精の気配……?」
「うん。でもね——」
サクラは視線を落とし、指先でテーブルの縁をなぞる。
「私は、他の精霊や妖精には会いたくないの。みんな、私のことを悪く言うから……」
その声には、どこか遠くを見るような悲しみが混じっていた。
それを見たヴェゼルは、何も言わずにサクラの頭に手を伸ばし、そっと撫でた。
「……無理しなくていいよ。エスパーダさんを泊めるのはやめよう。サクラが一番大事だよ」
その優しい声に、サクラはしばらく目を閉じていたが、やがて小さく首を横に振った。
「ううん、嫌じゃない。……カテラには元気になってほしいの。元気になったら、アクティと一緒に遊びたいんだ」
その笑顔は、涙のあとに咲いた花のようにやわらかく、眩しかった。
けれど次の瞬間、サクラはぷくりと頬をふくらませ、目を細めた。
「でも、そのかわり——夜寝る前に、いっぱい、いーっぱい甘やかしてね! ヴァリーよりも、ずっと!」
突然の要求にヴェゼルは目をぱちくりとさせ、ヴァリーが吹き出す。
「ちょっとサクラちゃん、それはずるいですよ。私の立場が……」
「いいの! だって私、身長だけは子どもなんだもん!」
その言葉に、ヴェゼルも思わず笑い出す。部屋の中には、温かな笑い声が広がった。
ほんの少し前まで胸の奥を覆っていた重たい空気が、春の風のように溶けていく。笑いが落ち着くころ、窓の外では陽が少し傾き始めていた。
やわらかな橙の光が部屋を包み、テーブルの影がゆっくりと伸びていく。
ヴァリーは静かに二人を見つめ、心の中でそっと呟いた。
(この子たちは、きっと運命で結ばれている……。でも、その運命は、まだ誰にも見えない形で、動き始めたばかりなのだわ)
その日、三人の胸の奥には、昨日までとは違う小さな光が灯っていた。
それは、やがて大きな運命を照らす、始まりの光でもあった。




