第212話 エスパーダ・アリアロス・トランザルプ02
トランザルプ神聖教国には、古くから公にできぬ秘密がある。
数百年前、スクーピー精霊王国が滅びた折、滅亡を逃れたわずかな精霊と妖精を保護した――という伝承だ。
それは建国の礎に関わる禁忌の記憶であり、知ることを許されたのはごく一部の高位聖職者のみ。エスパーダもまた、若くしてその真実を知る立場にあった。
だが、同時に悟った。
“教国は救済のためにあるのではなく、秘密を守るために存在しているのかもしれない”と。
数年前、ビック領で「妖精が目撃された」という噂が立った。ビック領主の嫡男のそばを飛び回る、いたずら好きな妖精――しかもその妖精が自らを領主の嫡男の“婚約者”だと名乗っているという。
まことしやかな話だったが、父スピアーノはその報告を受けて血相を変えた。彼は息子に命じた。「エスパーダ、お前が行け。真偽を確かめよ」と。
その声には、信仰よりも政治的な思惑の色が濃かった。
“妖精”を捕らえるか何かしらの成果を上げること、それがエスパーダの権威を高め、父の名誉も高める。それが父の狙いであり、息子の功績もまた、父の野望を飾る道具に過ぎなかった。
その命を受けた日、エスパーダの胸の内には奇妙な疑念が芽生えていた。
――教国とは何のために存在するのか。
――アトミカ教とほぼ同じ教義を持ちながら、なぜ互いに敵視し合うのか。
――なぜ、精霊や妖精の存在を隠し、執拗に探しているのか。
そして――父スピアーノは何を目指しているのか。
それは、誰に問うこともできない疑問だった。アトミカ教が収納魔法使いを保護しているのに対し、トランザルプ神聖教国はそれを禁じ、しかし裏では収納魔法に莫大な予算を注いで研究している。
同じ「神の奇跡」であるはずの力を、アトミカ教はなぜ奪い、支配しようとするのか。対して教国はただの研究対象としているだけ。
その矛盾に、エスパーダは少しずつ耐えがたい息苦しさを覚えるようになっていた。
主教という肩書きを与えられた彼だったが、それは名ばかりの地位だった。父の命令で聖魔法を披露し、群衆の前で奇跡を演じる――それが彼の役割。
確かに治癒を受けて助かった者もいた。だが、エスパーダにはそれが本当の救いだとは思えなかった。ただの演出。信仰の象徴。権威のための“見せ物”。
人々の感嘆と称賛は、彼には虚しく響いた。やがて、ビック領への派遣命令を受けた彼は、旅の途上で初めて“現実”を知ることになる。
聖救院も酷かったが、現実はもっと過酷だった。飢えた民。病に伏す子供。死者を弔う暇もないほどに擦り切れた村人たち。
彼は初めのうちこそ、旅の合間に人知れず治癒を施し、施し物を与えた。だが、それが何になるというのか。
一人を救っても、十人が死ぬ。十人を癒しても、百人が倒れる。その途方もない数の前に、エスパーダは打ちのめされた。
自分は何も変えられない。
“聖”とは、宗教とはこんなにも無力なのかと。
気づけば、彼の足はビック領から外れ、帝都の方角を向いていた。皇帝が座す都――この国で最も栄えた地ならば、何か答えがあるのではないか。
そう思って辿り着いた帝都は、確かに華やかだった。しかし、裏通りに一歩踏み入れれば、そこには貧困と暴力と差別が渦巻いていた。
信仰を口にする者の隣で、子供が飢えて死ぬ。「神は救う」と唱える声が、どれほど空虚に響いたことか。
いつしか、彼はすべての護衛と従者を帰らせた。ただ一人、名を偽り、浮浪者同然に都の片隅をさまようようになった。
それは贖罪だったのか、逃避だったのか――自分でもわからなかった。
ただ、何をしても希望は見えず、動くことさえ億劫になっていた。
そんなある日、いつものように貧民街の石畳に腰を下ろしていたときのこと。ひとりの少年が、露店の串焼きを盗もうとして失敗した。
店主が怒鳴り声を上げ、少年を殴り倒す。少年の左腕はなかった。切断の跡は古く、乱暴に処置されたものだ。
貴族に逆らって罰を受けたか、あるいは家族が“物乞いを憐れませるため”に切り落としたか。
どちらにせよ、この街では珍しくもない光景だった。エスパーダはそれをただ眺めていた。
あの少年は、半殺しにされる――命があったら儲け物。それがいつもの結末。
そう思ったその時だった。別の少年が走り出た。
暴行を止めようと、身を挺して割って入ったのだ。体格からして同年代。だが、その瞳には恐れではなく、強い光が宿っていた。
その瞬間、エスパーダの心に微かな震えが走った。何かが、胸の奥で音を立てて崩れたような気がした。
――あの子は、なぜあんなにも真っ直ぐに人を助けようとできるのだろう。
自分は、いつから何も感じなくなっていたのだろう。そして、エスパーダは久しぶりに立ち上がった。
あの少年を、少しだけ追ってみようと思った。理由はわからない。ただ――何かが彼を動かした。
その選択が、自らの運命を変えることになるとは、まだ誰も知らなかった。




