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第211話 エスパーダ・アリアロス・トランザルプ01

 エスパーダ・アリアロス・トランザルプは、トランザルプ神聖教国の総主教であり、国主スピアーノの嫡男として生まれた。


 幼少のころから周囲の誰もが「いずれは父の跡を継ぐ」と言い、本人もそれを当然のように受け入れていた。彼の未来は決まっている――そう信じて疑わなかった。


 だが、時が経つにつれ、父スピアーノは権力に取り憑かれたように変わっていった。


 高齢になるほどその執着は強まり、やがて「信仰」よりも「支配」を重んじるようになる。



エスパーダ・アリアロス・トランザルプは、いつも一人だった。彼には母の記憶がない。というより、母という存在そのものを知らされていなかった。


「母」という言葉を、幼い頃の彼はただ本の中で学んだだけだった。父は、トランザルプ神聖教国の総主教であり、国主でもあるスピアーノ・トランザルプ。


エスパーダにとって、その父は血のつながりを持つ親というよりも、教義を授ける師であり、祈りの在り方を定める存在だった。父子が顔を合わせるとき、そこに私的な情はなかった。儀礼と義務、そして問いと答え――それだけがあった。


愛という言葉を、彼は理解できなかった。彼の世界に、それを教えてくれる者はいなかったからだ。


ただ一人、幼いエスパーダの身の回りを世話してくれた老修道女だけが、彼に人としての温もりを与えていた。


白い頭巾をかぶり、いつも静かに祈りの詩を口ずさむその老女は、どんな時でもエスパーダの髪を撫で、「あなたは神に選ばれた子ですよ」と言って微笑んだ。


だが、彼が八歳の冬。その老女は病に伏し、冷たい寝台の上で、静かに息を引き取った。


最後の言葉は、かすかな笑みとともにこうだった。


――「あなたの世話をできて、幸せでした」


その言葉を最後に、彼女は眠るように逝った。その瞬間、エスパーダは生まれて初めて、胸の奥に痛みを感じた。その痛みが「愛」というものなのだと、誰に教えられたわけでもなく理解した。


けれど、それだけだった。その後、彼の心は再び静寂へと沈んだ。


祈りにも、教義にも、人の涙にも、もう心が動くことはなかった。


――精霊に会ったときでさえ、その感情は揺らぐことがなかった。


初めて精霊の姿を見たのは、まだ幼い頃、聖堂でのことだった。淡い光が形を持ち、まるで天上の存在のように現れた。


その場に居合わせた者は皆、涙を流し、跪いた。だが、エスパーダの胸は何一つ動かなかった。


それは畏怖でもなく、崇敬でもない。ただ、世界の理として“そこに在る”ものを見た――それだけだった。


冷ややかで、静かで、どこまでも透き通った心。彼にとって感情は、観測するもの、制御すべき現象のひとつでしかなかった。


そうして年月が流れた。愛を知らず、憐れみを覚えず、ただ与えられた戒律の中で成長した少年。




だが――その心がほんの少しだけ波立つ時が来る。


それは、“禁書の聖典録”との出会いだった。


彼の信じる世界の根を、静かに、しかし確実に揺るがせる書だった。




エスパーダが物心ついた頃、すでに彼の家は教国の中でも特別な立場にあった。代々、『初代教皇』が残したとされる禁書――《聖典録せいてんろく》を密かに受け継ぎ、決して外部に漏らしてはならぬ「知の系譜」を守ってきた一族だった。


彼が十歳を迎える頃、父であり現総主教でもあるスピアーノから、その聖典録の存在を知らされた。選ばれた者のみが、誓約の儀によって閲覧を許される。


誓約とは、聖印の刻印とともに「口外すれば魂を失う」と伝えられる契約魔法。エスパーダもまた震える手でその契約に名を記した。


初めて開かれた禁書の頁には、『カガク』と書かれていた。聖や祈りの言葉よりも、むしろ不可解な図や数式、人体の構造を記した絵図が並んでいた。


そこには「骨」「血管」「細菌」など、教会でも知られぬ概念が記され、人の病は悪霊の仕業ではなく、目に見えぬ微細な存在によるものだと記されていた。


また、病を防ぐための清潔、食の管理、病後の養生法、薬草の配合と熱の下げ方など――まるで異世界の知が詰め込まれたような内容だった。


だが、それらは序章にすぎないと注釈にあった。しかし、後編にあたる聖典録は、すでに失われたのか、トランザルプ神聖教国には伝わっていなかった。


その知識の一端を学ぶほどに、エスパーダは奇妙な感覚を覚えた。


これは「魔法書」ではない。だが、そこに記された理屈を理解するほど、自らの聖魔法の効力が増していくのだ。


聖典録は“知識によって魔法が強化される”という法則――つまり、信仰よりも理解を重んじる教えを秘めていた。


やがてエスパーダは、父の命で教国が運営する終末医療施設――「聖救院」に赴いた。そこでは治療の望みを絶たれた者たちが、最期の祈りを捧げる場であった。


エスパーダは素性を隠し、ただの“治癒師”として奉仕した。最初のうちは嫌々だった。父に命じられた義務感と、己の魔法の検証という冷ややかな動機で、彼は患者たちに手をかざした。


しかし、何度も施術を重ねるうちに、変化が訪れた。祈るように自分の手を握る老女の姿。治療を受けた子どもが再び笑顔を取り戻す瞬間。


その一つひとつが、彼の心の中に静かな灯をともした。


「これは実験ではない。これは――救いなのだろうか。」


エスパーダはいつしか、魔法の理よりも人の生を見つめるようになった。禁書に記された“知”は、呪いでも異端でもなく、誰かを癒すための“理”なのではないか。


そう思うようになった時、彼ははじめて、聖典録の一節の意味を理解する。


――“知は、神に最も近き祈りなり。”


それでも彼は知らなかった。その禁書が、彼が感じたあの夜の囁き――それが、ただの幻聴ではなかったことを。





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