表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

225/349

第208話 その夜

バネット商会では、ヴェゼルの祖父ベンティガに、経緯を話すとすぐさま動いてくれて、カテラには専属の侍女をつけてくれた。


小さな体を抱えたその侍女は、やさしい手つきで毛布を整え、カテラの髪をそっと整える。


細い指先で髪のもつれを解いていく様子は、まるで子猫を撫でるかのように慎重で、カテラも安心したように小さな声を漏らす。


カテラはまだ幼く、布団の中でうつらうつらと目を閉じている。


かすかな呼吸音、胸の上下するリズム、そして時折軽くせきをするたびに胸が痛そうに見える。その小さな体は、帝都の貧民街での過酷な日々を物語っていた。


皮膚はかさつき、髪は伸び放題で乱れ、あれほどお風呂で洗ったのに、まだかすかな臭いが漂う。痩せ細った体は、布団に横たわっていても、見る者に痛ましさを伝える。


しかし、少なくとも今は身の回りの世話が行き届き、食事や体のケアが可能な環境が整った。


栄養のある食事、清潔な布団、温かい毛布、そして安心できる見守り。これだけのことが、かつてないほどの救いであり、ヴェゼルにとっても大きな安堵となった。


子どもの命が守られ、今ここにいるという確かな事実が、彼の胸に重く、そして温かくのしかかる。



ヴェゼルはまず、兄のカムシンと落ち着いて話をする時間を持つことにした。


帝都の路地や屋台で、飢えと恐怖に耐え抜いてきた少年に、少しでも安心を届けたい。


言葉だけでなく、目線や仕草で「大丈夫だ」と伝えたい。


「僕の名前をまだ名乗っていなかったね。ビック領騎士爵の嫡男、ヴェゼル・パロ・ビックと言う。君の妹のカテラは、この家の安全な場所にいる。ここで手厚く守られるから安心してね」


ヴェゼルは静かに言った。しかし、少年の目はかすかに震え、唇を噛みしめたあと、思わず床に額をつける。


泣き声は漏れず、ただ小さく息を震わせながら、「僕はどうなっても構いません……でも、妹だけは助けてください」と、必死の思いを口にする。小さな胸に押し込められた恐怖と絶望が、言葉となって溢れ出す瞬間だった。


ヴェゼルはその真剣な態度に一瞬、言葉を失った。カムシンにとって、「貴族」という存在は、権力と特権の象徴に過ぎないのだろう。


しかし、実際のビック家は、形式的な特権を振りかざすこともなく、ごく普通の人々の集まりに過ぎない。ヴェゼルは心の中で小さく息をつき、静かに語りかける。


「僕の領も僕の親族も、権力を笠に横暴するような人たちじゃない。安心していいよ、君の妹を守るのは当然のことだ。なんせ僕は君たち兄妹を買ったんだからね」と、冗談めかして付け加えた。


カムシンはようやく肩の力を抜き、心底安堵した表情を浮かべる。


顔にはまだ不安の影が残るが、少なくとも今は、恐怖や絶望の色は薄れていた。小さな手が少し震えながらも、カテラの手に触れる。


「ところで、これからどうするか、考えているの?」


ヴェゼルは少年に問いかける。


カムシンは一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐに決意を込めた声で答える。


「もう帝都にはいたくありません」


ヴェゼルは頷き、さらに具体的な選択肢を提示した。


「ビック領に行くのがいいかな。ただし、ビック領まではおおよそ一か月の旅になる。カテラは体がまだ弱いから、今は無理かもしれない。その間、このバネット商会で働くかい?」


カムシンは少しだけ表情を曇らせた。帝都の雑踏から離れたい気持ちはあるが、妹のカテラのことを考えると、長旅は到底無理だと理解している。


ヴェゼルはそれを見抜き、優しく声をかける。「カテラが元気になったら、ビック領に来ればいい。それまでは、この商会で世話になりながら、少しずつ仕事を覚えていけば良い」


そばにいたルークスも、安心して任せなさいとでも言うように、優しい目をカムシンに向けた。


少年は少し涙をこぼしながらも、覚悟を決めたように小さく頷く。「その間、精一杯働きます」


その誓いには、彼の意志と責任感が滲んでいた。


ヴェゼルはカムシンの目を見つめ、彼ならどんな困難があっても、妹の未来を、絶対に守るのだろうと思った。


バネット商会では、侍女たちがカムシンを温かく迎え入れ、従業員専用の夕食の席へと案内していった。


いつもの食卓には、ヴァリー、ベンティガ、ルークス、ヴェゼル。この顔ぶれなら、サクラが出てきても問題ない。


ヴェゼルが声をかけると、ポケットから顔を覗かせたサクラも、食事に加わった。


サクラは一日中ポケットに詰め込まれていたせいか、窮屈そうにブーブー文句を言う。


そして、サクラは食事前にヴェゼルが前に教えた柔軟体操を入念に行った。


両頬をたたき、「よし!やるか!」と気合を入れるサクラの様子に、ヴェゼルは心の中で「格闘技でもやるのかよ!」と突っ込みたくなったが、なんとか堪えた。


ヴェゼルとヴァリーは苦笑いしながら、その小さな仕草を見守る。


さらにサクラは、今日がよほど暇だったのか、食事前にヴァリーに挑戦状を叩きつけた。


「今日はたくさん食べた方が、ヴェゼルと一緒に寝る権利を獲得できることにする!」と勝手に宣言する。


「そもそも、いつも三人で寝てるじゃないか!」とヴェゼルがツッコミを入れると、隣にいたルークスがニヤニヤし、ヴァリーの顔は真っ赤になった。


やがて夕食は終わり、勝敗は結局うやむやになった。二人とも食べすぎて、それどころではなかったのだ。


サクラは「しゃべると全部出る!」と言ったきり、口を押さえて動かなくなる。


ヴェゼルがふざけてお腹を軽く突くと、激おこ顔で睨まれた。


その後、復活したヴァリーやサクラを交えて、たわいもない会話を楽しむ。


そしていつものように、ヴェゼルとヴァリーは同じ布団に入る。ヴァリーが優しく寄り添い、ヴェゼルを包むように身体を寄せる。


サクラもまた、いつも通りヴェゼルの枕元に小さな布団を持ち込み、眠る準備をした。布団に横たわったヴェゼルは、静かなサクラの呼吸を感じる。


「エスパーダは、これからどうするの?」サクラがぽつりと小声で呟いた。


「明日はカテラの診断に来る予定だよ。その後は、まだわからないな」ヴェゼルは落ち着いた声で答える。


サクラは小さく息を呑み、言葉を探すように逡巡する。「……エスパーダのこと、気になる……」


しかしその言葉を言い終わらないうちに、口をつぐむ。


ヴェゼルは優しく尋ねた。「そんなに気になるの?」


サクラは素直に「うん」と答える。


どうやら、エスパーダが近くにいると落ち着かなくなるらしい。「それに……」と言いかけるが、言葉を飲み込み、目をそらす。確かにエスパーダと出会ってから、ポケットの中のサクラは落ち着きがなかった。


ヴェゼルは彼女の微妙な心の動きに気づき、静かに見守った。少しの沈黙のあと、サクラはさらに訊ねてくる。


「私のこと……妖精のこと、気になる?」


ヴェゼルは微笑みながら答えた。


「そりゃ気になるよ。だって未来の僕の妖精第一夫人なんでしょ?」


サクラは耳まで赤く染め、顔を伏せる。


ヴェゼルは真顔になり、優しく言った。


「無理には聞き出さないよ。サクラが自分から話すまで、僕は待つから」


その言葉にサクラは感極まったように、涙をぽろぽろとこぼした。「何があっても私のこと嫌いにならないでね?」と呟く。


ヴェゼルは笑顔で応える。「サクラを、どんなことがあっても嫌いになんかならないよ」


サクラは涙を拭きながら、強がって言った。「これは……目から涎が出ただけ!」と顔を覆う。


隣のヴァリーは笑いながら茶化す。「もっと別の例え方があるんじゃないんですか?」


サクラは「もう、寝る!」と叫び、布団に潜り込み丸くなる。


その直後、布団から這い出てきて、そっとヴェゼルの顔に唇を寄せ、小さな声で「ありがとう」と囁いた。


そして素早く自分の布団に戻り、丸くなった。




十数分後、ヴェゼルがうとうとしていると、何やら小さな音が聞こえる。隣を見ると、サクラはいびきをかいて熟睡しており、布団から片足がはみ出していた。お腹もぽっこりと出ていて、半目を開けたまま眠っている。


隣のヴァリーと目が合い、二人は思わず苦笑いした。


ヴェゼルはそっとサクラを布団に入れ直してあげる。


その夜、商会には静かな安堵の空気が流れた。


兄妹は守られ、サクラは安心して眠り、ヴェゼルは仲間たちのいる心地よさを改めて感じていた。未来への小さな希望が、ひとつずつ積み重なる瞬間だった。



ヴェゼルはこれからどうするべきか、いろいろ考えて……そのまま寝落ちた……。




翌朝、目を覚ますと、夜中に布団から、またはみ出ていたのだろう。その寒さのせいか、またサクラがヴェゼルの髪の毛を布団代わりにして寝ていた。


朝一番に起きたヴァリーは、その様子を見て笑いながら言った。


「そんな体勢でよく寝られますね」と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ