第208話 その夜
バネット商会では、ヴェゼルの祖父ベンティガに、経緯を話すとすぐさま動いてくれて、カテラには専属の侍女をつけてくれた。
小さな体を抱えたその侍女は、やさしい手つきで毛布を整え、カテラの髪をそっと整える。
細い指先で髪のもつれを解いていく様子は、まるで子猫を撫でるかのように慎重で、カテラも安心したように小さな声を漏らす。
カテラはまだ幼く、布団の中でうつらうつらと目を閉じている。
かすかな呼吸音、胸の上下するリズム、そして時折軽くせきをするたびに胸が痛そうに見える。その小さな体は、帝都の貧民街での過酷な日々を物語っていた。
皮膚はかさつき、髪は伸び放題で乱れ、あれほどお風呂で洗ったのに、まだかすかな臭いが漂う。痩せ細った体は、布団に横たわっていても、見る者に痛ましさを伝える。
しかし、少なくとも今は身の回りの世話が行き届き、食事や体のケアが可能な環境が整った。
栄養のある食事、清潔な布団、温かい毛布、そして安心できる見守り。これだけのことが、かつてないほどの救いであり、ヴェゼルにとっても大きな安堵となった。
子どもの命が守られ、今ここにいるという確かな事実が、彼の胸に重く、そして温かくのしかかる。
ヴェゼルはまず、兄のカムシンと落ち着いて話をする時間を持つことにした。
帝都の路地や屋台で、飢えと恐怖に耐え抜いてきた少年に、少しでも安心を届けたい。
言葉だけでなく、目線や仕草で「大丈夫だ」と伝えたい。
「僕の名前をまだ名乗っていなかったね。ビック領騎士爵の嫡男、ヴェゼル・パロ・ビックと言う。君の妹のカテラは、この家の安全な場所にいる。ここで手厚く守られるから安心してね」
ヴェゼルは静かに言った。しかし、少年の目はかすかに震え、唇を噛みしめたあと、思わず床に額をつける。
泣き声は漏れず、ただ小さく息を震わせながら、「僕はどうなっても構いません……でも、妹だけは助けてください」と、必死の思いを口にする。小さな胸に押し込められた恐怖と絶望が、言葉となって溢れ出す瞬間だった。
ヴェゼルはその真剣な態度に一瞬、言葉を失った。カムシンにとって、「貴族」という存在は、権力と特権の象徴に過ぎないのだろう。
しかし、実際のビック家は、形式的な特権を振りかざすこともなく、ごく普通の人々の集まりに過ぎない。ヴェゼルは心の中で小さく息をつき、静かに語りかける。
「僕の領も僕の親族も、権力を笠に横暴するような人たちじゃない。安心していいよ、君の妹を守るのは当然のことだ。なんせ僕は君たち兄妹を買ったんだからね」と、冗談めかして付け加えた。
カムシンはようやく肩の力を抜き、心底安堵した表情を浮かべる。
顔にはまだ不安の影が残るが、少なくとも今は、恐怖や絶望の色は薄れていた。小さな手が少し震えながらも、カテラの手に触れる。
「ところで、これからどうするか、考えているの?」
ヴェゼルは少年に問いかける。
カムシンは一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐに決意を込めた声で答える。
「もう帝都にはいたくありません」
ヴェゼルは頷き、さらに具体的な選択肢を提示した。
「ビック領に行くのがいいかな。ただし、ビック領まではおおよそ一か月の旅になる。カテラは体がまだ弱いから、今は無理かもしれない。その間、このバネット商会で働くかい?」
カムシンは少しだけ表情を曇らせた。帝都の雑踏から離れたい気持ちはあるが、妹のカテラのことを考えると、長旅は到底無理だと理解している。
ヴェゼルはそれを見抜き、優しく声をかける。「カテラが元気になったら、ビック領に来ればいい。それまでは、この商会で世話になりながら、少しずつ仕事を覚えていけば良い」
そばにいたルークスも、安心して任せなさいとでも言うように、優しい目をカムシンに向けた。
少年は少し涙をこぼしながらも、覚悟を決めたように小さく頷く。「その間、精一杯働きます」
その誓いには、彼の意志と責任感が滲んでいた。
ヴェゼルはカムシンの目を見つめ、彼ならどんな困難があっても、妹の未来を、絶対に守るのだろうと思った。
バネット商会では、侍女たちがカムシンを温かく迎え入れ、従業員専用の夕食の席へと案内していった。
いつもの食卓には、ヴァリー、ベンティガ、ルークス、ヴェゼル。この顔ぶれなら、サクラが出てきても問題ない。
ヴェゼルが声をかけると、ポケットから顔を覗かせたサクラも、食事に加わった。
サクラは一日中ポケットに詰め込まれていたせいか、窮屈そうにブーブー文句を言う。
そして、サクラは食事前にヴェゼルが前に教えた柔軟体操を入念に行った。
両頬をたたき、「よし!やるか!」と気合を入れるサクラの様子に、ヴェゼルは心の中で「格闘技でもやるのかよ!」と突っ込みたくなったが、なんとか堪えた。
ヴェゼルとヴァリーは苦笑いしながら、その小さな仕草を見守る。
さらにサクラは、今日がよほど暇だったのか、食事前にヴァリーに挑戦状を叩きつけた。
「今日はたくさん食べた方が、ヴェゼルと一緒に寝る権利を獲得できることにする!」と勝手に宣言する。
「そもそも、いつも三人で寝てるじゃないか!」とヴェゼルがツッコミを入れると、隣にいたルークスがニヤニヤし、ヴァリーの顔は真っ赤になった。
やがて夕食は終わり、勝敗は結局うやむやになった。二人とも食べすぎて、それどころではなかったのだ。
サクラは「しゃべると全部出る!」と言ったきり、口を押さえて動かなくなる。
ヴェゼルがふざけてお腹を軽く突くと、激おこ顔で睨まれた。
その後、復活したヴァリーやサクラを交えて、たわいもない会話を楽しむ。
そしていつものように、ヴェゼルとヴァリーは同じ布団に入る。ヴァリーが優しく寄り添い、ヴェゼルを包むように身体を寄せる。
サクラもまた、いつも通りヴェゼルの枕元に小さな布団を持ち込み、眠る準備をした。布団に横たわったヴェゼルは、静かなサクラの呼吸を感じる。
「エスパーダは、これからどうするの?」サクラがぽつりと小声で呟いた。
「明日はカテラの診断に来る予定だよ。その後は、まだわからないな」ヴェゼルは落ち着いた声で答える。
サクラは小さく息を呑み、言葉を探すように逡巡する。「……エスパーダのこと、気になる……」
しかしその言葉を言い終わらないうちに、口をつぐむ。
ヴェゼルは優しく尋ねた。「そんなに気になるの?」
サクラは素直に「うん」と答える。
どうやら、エスパーダが近くにいると落ち着かなくなるらしい。「それに……」と言いかけるが、言葉を飲み込み、目をそらす。確かにエスパーダと出会ってから、ポケットの中のサクラは落ち着きがなかった。
ヴェゼルは彼女の微妙な心の動きに気づき、静かに見守った。少しの沈黙のあと、サクラはさらに訊ねてくる。
「私のこと……妖精のこと、気になる?」
ヴェゼルは微笑みながら答えた。
「そりゃ気になるよ。だって未来の僕の妖精第一夫人なんでしょ?」
サクラは耳まで赤く染め、顔を伏せる。
ヴェゼルは真顔になり、優しく言った。
「無理には聞き出さないよ。サクラが自分から話すまで、僕は待つから」
その言葉にサクラは感極まったように、涙をぽろぽろとこぼした。「何があっても私のこと嫌いにならないでね?」と呟く。
ヴェゼルは笑顔で応える。「サクラを、どんなことがあっても嫌いになんかならないよ」
サクラは涙を拭きながら、強がって言った。「これは……目から涎が出ただけ!」と顔を覆う。
隣のヴァリーは笑いながら茶化す。「もっと別の例え方があるんじゃないんですか?」
サクラは「もう、寝る!」と叫び、布団に潜り込み丸くなる。
その直後、布団から這い出てきて、そっとヴェゼルの顔に唇を寄せ、小さな声で「ありがとう」と囁いた。
そして素早く自分の布団に戻り、丸くなった。
十数分後、ヴェゼルがうとうとしていると、何やら小さな音が聞こえる。隣を見ると、サクラはいびきをかいて熟睡しており、布団から片足がはみ出していた。お腹もぽっこりと出ていて、半目を開けたまま眠っている。
隣のヴァリーと目が合い、二人は思わず苦笑いした。
ヴェゼルはそっとサクラを布団に入れ直してあげる。
その夜、商会には静かな安堵の空気が流れた。
兄妹は守られ、サクラは安心して眠り、ヴェゼルは仲間たちのいる心地よさを改めて感じていた。未来への小さな希望が、ひとつずつ積み重なる瞬間だった。
ヴェゼルはこれからどうするべきか、いろいろ考えて……そのまま寝落ちた……。
翌朝、目を覚ますと、夜中に布団から、またはみ出ていたのだろう。その寒さのせいか、またサクラがヴェゼルの髪の毛を布団代わりにして寝ていた。
朝一番に起きたヴァリーは、その様子を見て笑いながら言った。
「そんな体勢でよく寝られますね」と。




