第207話 エスパーダとの出会い04
医務室は、夜の帳が落ちる直前の薄闇に包まれていた。
石造りの壁に、蝋燭の淡い光がゆらめいている。
その光に照らされながら、少女――カテラは細い呼吸を繰り返していた。
喉の奥で小さな音を立てるたび、胸がかすかに上下する。
ヴェゼルはその傍らに立ち、手のひらをぎゅっと握りしめていた。
ヴァリーは心配そうにその肩に手を添え、カムシンは妹の枕元に膝をついている。
少年の小さな手が、妹の冷たい指を包んでいた。
エスパーダは静かに少女の傍へ歩み寄る。
「ベッドに寝かせたままで構いません。……少し、見せてください」
とだけ言って、カテラの額の上に手をかざした。
目を閉じる。
その瞬間、医務室の空気がすっと澄んだように感じられた。
まるで風が止まり、音が消えたように――。
やがて、エスパーダの掌の下に淡い光が生まれた。
それは炎のようでも、霧のようでもなく、ただ温かく静かな輝きだった。
光が少女の体の輪郭をなぞり、ゆっくりと全身を包み込んでいく。
ヴェゼルが息をのむ。
その光は、温もりを持っていた。
見ているだけで、胸の奥のざらついたものが少しずつ溶けていくようだった。
数分の沈黙のあと、エスパーダは目を開け、低く呟いた。
「……思ったよりも悪いですね。体の中が弱っている」
ヴェゼルの胸が強く跳ねた。
「そんな……助けられるんですか?」
エスパーダは答えず、視線だけをカムシンに向けた。
「君、妹さんの手を握っているね。」
少年はこくりと頷いた。
「離したくないんだ。でも……」
「わかるよ。」
エスパーダは優しい声で言った。
「だけど、少しだけ、みんな離れてくれるかな。カムシンもね。」
カムシンは唇を噛んで妹を見つめ、それでも渋々手を放した。
エスパーダはそっと微笑み、深く息を吸い込む。その瞬間、彼の背後に淡い輪が浮かび上がった。
空中に描かれたかのような光の紋――魔法陣だ。ゆっくりと回転しながら、彼の頭上で輝きを強めていく。
「……………………サ……ク………ルーミナ……リュミエール……」
彼の口から紡がれる詠唱は、誰も聞いたことのない古語だった。
それは呪文というより祈りに近く、静かな旋律のようでもあった。
青白い光が、カテラの身体を包み込む。光が強まり、部屋全体を淡く染める。
やがてそれは息をするように明滅し、ゆっくりと収束していった。
眩しさが消えると、そこに残ったのは痩せた小さな体。
しかし――その顔には、確かに血の気が戻っていた。
頬の色がわずかに明るくなり、呼吸が整っている。
まるで長い悪夢から解かれたように、少女の表情が柔らかくなった。
「……カテラ!」
カムシンが駆け寄り、震える声で妹の名を呼ぶ。その声に応えるように、カテラの唇がかすかに動いた。
「……おにい、ちゃん……」
その瞬間、ヴァリーが目を見開いた。
「今、喋った……!」
ヴェゼルも思わず前に出た。
「本当に……?」
エスパーダはゆっくりと立ち上がり、軽く息を吐いた。
「治癒というほどではありません。体の奥にこびりついた病の根は、まだ残っています。ですが、命の火が消えるのは止められたようです。………………ただ、魔法の効果が…………」
そう言うと、彼は周囲を見回し、落ち着いた声で指示を出した。ただ、最後の方の呟きはあまり聞こえなかった。
「この子には、まずパンや豆をすり潰して煮たものを与えてください。
味は薄く。できれば甘い味付けを、胃が驚かないように、少しずつ慣らして。
体が痩せているので、毛布を多めにかけて、室内は暖かく。
それから――『湿度』を保ってください。
お湯を火にかけ、部屋の空気が乾かないように。」
その言葉に、ヴェゼルは思わず目を見張った。
“湿度”――。
異世界で、その発想を聞くとは思わなかった。
前世の彼は医療知識があるわけではなかったが、エスパーダの言葉が的確だということは、直感でわかった。
この世界では「癒しの魔法」に頼る者が多い。
だが、魔法のあとに「環境管理」や「栄養指導」を語る者など、聞いたことがない。
「……すごい。まるで、医者のようですね」
ヴェゼルが呟くと、エスパーダは小さく首を振った。
「そんな大層なものではありません。
ただの……経験です。多くの人を見てきただけ。」
その横顔には、僅かな疲労と、それ以上に深い悲しみが滲んでいた。
蝋燭の光が、顔を淡く照らす。その姿に、ヴェゼルの胸がざわついた。
――この人はいったい、何者だ?
気づけば口にしていた。
「……エスパーダさん。あなたは何者なんですか?」
その問いに、エスパーダは静かに微笑んだ。
「私は、ほんの少し聖魔法が使えるだけの、ただの流浪の神官ですよ。」
その声は、どこまでも穏やかで、どこまでも遠かった。
嘘を言っている気配はない。だが、真実を語っているようにも思えなかった。
ヴェゼルはその瞳を見つめた。瞳の光がわずかに揺れる。
そこには何百もの人の死を見てきたような、深い憂いがあった。
「……流浪の神官、ですか。」
ヴェゼルがそう呟くと、エスパーダは軽く頷き、カテラの枕元に視線を戻した。
「この子はしばらく安静に。それから――明日、また見させてください。私はもう少し、この街に留まるつもりです。」
「……ありがとうございます。本当に。」
ヴェゼルは頭を下げた。
エスパーダは何も言わず、ただ静かに頷いた。
医務室を出ると、夜風が通路を抜けた。外ではまだ帝都の灯が瞬いている。
ヴェゼルは小さく息をつき、心の中で呟いた。
――やっぱり、この人はただの神官なんかじゃない。
そしてポケットの中で、サクラが小さくため息を吐いた気がした。




