第205話 エスパーダとの出会い02
湿った空気が、部屋の隅に淀んでいた。
壁は割れ、外の光が細く差し込む。埃が光を反射し、ゆらゆらと漂う。
父親は直接床に腰を下ろし、片手に饐えたような匂いのする酒の瓶を握っていた。
目は血走り、皮膚は脂と煤で黒ずんでいる。
「なぁ、あんたら。見りゃ分かるだろ。俺んとこにゃ金なんてねぇ」
「分かっています」ヴェゼルが静かに答える。
「でも、子どもたちをこれ以上苦しめるのは──」
「うるせぇ!」
男はそばにある空いた樽を床に叩きつけた。樽の破片が散る。
「ガキが……説教垂れに来たのか?」
ヴァリーが思わずヴェゼルの腕を掴む。サクラがポケットの中で動いた。
エスパーダはただ壁際で静観している。薄汚れた法衣の裾が埃を拾い、光の中で静止して見えた。
その灰青の瞳が、まるですべてを見透かしているようだった。
「父さん……」カムシンが声を震わせた。
「妹が……カテラが苦しそうなんだ。少しでいい、薬を──」
「うるせぇっつってんだろ!」男はカムシンの頬を平手で叩いた。
小さな体が床に倒れ、埃が舞い上がる。カムシンは起き上がり、悔しそうに自分の無くなった左腕を見る。
その瞬間、ヴァリーが前へ出た。「やめなさいッ!」
「親がガキを殴って何が悪い! 口出しすんな!」
「……あなた、それでも人間?」
「ハッ、人間だから腹が空くし、クソも垂れる。だから金がねぇんだよ!」
ヴェゼルは歯を食いしばった。怒りが喉の奥で泡立つ。
だが、その時、エスパーダの声が、カムシンの顔を見た後に低く響く。
「落ち着きなさい、少年」
彼は一歩前に出ると、男を見据えた。もしやと思い父親に確認する。
「あなた、もしかして周囲の憐れみを乞うために、その子の腕を落としたのですか?」
「……あぁ。俺のガキたちだ。どう使おうが俺の勝手だろうが」
エスパーダの瞳に冷たい光が宿る。
「なるほど。──地獄の門番でも、あなたの言葉には首を傾げるでしょうね」
「なんだと?」男が立ち上がり、よろめきながらエスパーダに詰め寄る。
だが、ヴェゼルが先に動いた。男の前に立ちはだかり、静かに告げた。
「じゃあ──その兄妹を、僕が買います」
「は?」
「僕が買う。あの二人を」
「……はっ、酔狂だな。こんなクソガキ達を、冗談か?」
男はにやにやと笑い、酒臭い息を吐いた。
「だがな、こいつらは俺の飯の種だ。タダではやれねぇな」
ヴェゼルの眼光が冷たく光る。
「……いくらですか?」
「そうだな……」男は舌を鳴らした。「金貨一枚だな」
ヴェゼルは無言で懐から金貨を取り出し、放った。
金貨は埃の床に落ち、鈍い音を立てた。
男はそれを拾い上げ、目を細める。
そして、指を一本立てた。
「それで、一人分だ。もう一枚」
その笑みは、腐った魚のようだった。
ヴェゼルはわずかに眉を動かした。だが、ポーチからもう一枚取り出して、投げる。
金貨が空中で光り、床に転がる。
「……これで十分でしょう」
「へっ、毎度あり」
男は金貨を掴み取り、薄笑いを浮かべた。その足で寝ている娘──カテラを軽く蹴った。
「おい、起きろよ。お前ら、今日からは、こいつのもんだ」
ヴァリーが息を呑み、ヴェゼルの腕を掴む。
「ヴェゼル様、もう行きましょう」
「……ああ」
ヴァリーは少女を抱き上げ、カムシンの手を取った。
「行きましょう。わたしの知り合いの家に行きましょう。暖かいご飯がありますよ」
カムシンは、涙をこらえながら頷いた。ヴァリー達の後に神官も出ていった。
全員が外に出たその背を見送りながら、ヴェゼルは最後に男の方を向いた。
腐ったような笑顔が、まだそこにあった。
「なんだよ、ガキ。まだ何かくれるのか?」
ヴェゼルの声は低く落ちた。
「先ほど──僕が二人を買ったあとで、あなたは娘さんを蹴りましたね」
「はぁ?」
「あれは、もう僕のものです」
男が眉をひそめる。「……は?」
「僕のものに、傷をつけた。その対価を──もらいます」
ヴェゼルの瞳の奥で、黒い光がゆらめいた。外へ歩き出す。
男の怒鳴り声が背中に浴びせられる。
「何言ってやがる! ガキが調子に乗るな!」
ヴェゼルが一瞥した──その瞬間、空気が揺らいだ。
「収納……脳髄」
ボロ屋の中で、男が突然頭を押さえた。
「っが、あぁぁぁぁぁ!」
叫びとともに、身体が崩れ落ちる。
その意識は、闇に飲み込まれていた。
ヴェゼルは何も振り返らず、静かに扉を閉めた。
背後で魔力の揺らぎを感じたエスパーダが、微かに呟いた。
「……赦しのない救済、か」




