第204話 エスパーダとの出会い01
バネット商会の3階。
陽の差し込む応接室で、ヴェゼルは手にした封書を丁寧にたたんだ。
差出人はブガッティ第一席――帝国内一番の魔法の使い手で研究者である。
魔法に精通する奇人とも評される人であり、帝都でも限られた者しか会えない人物だ。
ヴェゼルは、その面会の仲介を祖父であり商会長のベンティガに頼んでいた。
「どうせなら、正式な文面で届けた方が良いだろう」
と、祖父は手ずから封蝋を押し、老練な筆致で紹介状を書き上げてくれたのだ。
「先方の予定を確認してくる間、少し時間ができるだろう」
祖父にそう言われ、ヴェゼルは頷いた。
そこで彼は、ヴァリーを誘って帝都の町を歩くことにした。
ポケットの中では、サクラが、ひょっこりと顔を出して、あたりをキョロキョロと見る。
「本当に、ただの散策ですか?」と、ヴァリーが微笑む。
「もちろんです。今日はただの休日ですよ」
ヴェゼルは軽く笑い返した。
そうして二人は仲良く手を繋ぎ石畳を踏みしめ、喧騒と香ばしい屋台の匂いが混ざる帝都の大通りへと出ていった。
帝都の朝は、商人たちの掛け声、果物を積んだ荷車、風に乗る焼き菓子の香り。
そんな雑踏の中を、ヴェゼルはヴァリーと並んで歩いていた。
「ヴェゼル様、そんなに真面目な顔で歩かないでいいのですよ。せっかくの散策なのですから」
ヴァリーが笑って肩を寄せた。
「……いや、やっぱり人混みに出ると、ちょっと落ち着かなくて」
二人は露店をひやかしながら、帝都のメイン通りを抜ける。
香辛料の匂いが混じり合い、どこか異国めいた空気。
ヴェゼルは思う──この帝都の豊かさは、きっとどこかの“貧しさ”で支えられている。
そして気づけば、道は細くなっていた。
石畳が崩れ、家々は壁を寄せ合うように傾いている。
「……ここ、貧民街?」
「うん。行くのは初めてだけど……」
ふと、通りの先から怒鳴り声が聞こえた。
視線を向けると、痩せた少年が露店の主に首を掴まれていた。
少年の左腕──いや、そこにはもう腕がなかった。
切り落とされた跡が古傷のように乾いている。
「このガキ、串肉を盗みやがって!」
露店の男が振り上げた手を、ヴェゼルは無意識に掴んでいた。
「待ってください。……いくらですか?」
「はぁ?」
「僕が払います」
懐から銀貨を出し、男に渡す。露店主は舌打ちしつつも手を離した。
少年は怯えた目でヴェゼルを見上げた。
髪は煤で黒ずみ、頬はこけている。
「名前は?」
「……カムシン」
「家は?」
「……ある。でも、妹が……病気で……」
「妹?」
ヴェゼルが眉を寄せる。ヴァリーがそっとそばに寄る。
「お腹すいてるでしょ。これ、食べて」
買ったばかりの肉串を差し出すと、少年は手を震わせながら受け取った。
そのとき、背後から低い声が響いた。
「一時の施しでは、結局は何も生まないのですよ」
振り向くと、そこに一人の聖職者の青年が立っていた。
高身長で、くすんだ法衣を纏い、顔には薄汚れた布のフード。
だが、その灰青の瞳は、街のどんな光よりも透き通っていた。
「……聖職者?」
「いや、今はただの旅人です」
青年はゆっくりと歩み寄り、少年と串を見つめる。
「腹を満たしても、明日はまた飢える。貧しさを救うには、心か、あるいは運命そのものを変えねばならない」
その言葉に、ヴェゼルは一瞬反発を覚えた。
だが、言っていることは正論だ。
「そうかもしれない。でも……見て見ぬふりはしたくないんです」
青年は少しだけ目を細めた。
「──ほう。珍しいですね、そう言い切る若者は」
ヴェゼルはカムシンに視線を戻す。
「カムシン、君の家に案内してもらえますか? 妹を見たい」
少年は驚いたように後ずさる。
「……だめだ。父さんが、よそ者を家に入れたらきっと殴られる」
「それでもいいんです。もし治せる病なら、治してあげたいから」
その言葉に、聖職者の青年が小さく口角を上げた。
「面白いですね。それでしたら、私も同行させてもらいましょう」
「あなたは……?」
「エスパーダ。ただの放浪の神官です」
ヴェゼルは、どこかこの男にただならぬ気配を感じた。
清貧の衣に似合わぬ威圧感、隠しきれぬ気配。
サクラがポケットの中で小さく震える。
カムシンはしばらく迷った後、うつむいて呟いた。
「……わかったよ。でも、怒られても知らないよ」
そう言って、彼は裏通りへと歩き出した。
瓦礫とゴミの山の中を抜けると、やがてボロ屋が見えた。
屋根は崩れ、壁には穴。だが、そこには確かに“暮らし”があった。
扉を開けた瞬間、怒号が飛ぶ。
「カムシン! 今日の稼ぎはどうした!」
中から現れたのは、焦げ茶の髪を伸ばし放題の中年男。
その目は死んでいた。
「父さん……」
「なんだそいつらは! 金も食いもんもねえのに、人間連れてきやがって!」
ヴェゼルは静かに一歩前に出た。
「露店で、息子さんが串肉を盗もうとしていました。折檻されていたので、代金を払いました」
男は鼻で笑い、カムシンに向かって唾を吐いた。
「このクズが! またしくじりやがって!」
そしてヴェゼルに視線を向けて吐き捨てる。
「うちには金なんてないからな!」
ヴァリーが眉をひそめ、エスパーダが無言で室内を見渡す。
奥では、ぼろ切れに包まれた少女が寝ていた。
小さな体、浅い呼吸。
カムシンが駆け寄る。
「カテラ……」
ヴェゼルは胸の奥が痛んだ。
これが“帝都の影”なのだ。




