第199話 アンニュイな一日 だがしかし
朝の光が、まだ白く柔らかい。
薄いカーテン越しに差し込む陽の筋が、静かにヴェゼルの頬を照らしていた。
目は覚めている。けれど、体はまだ起きることを拒んでいた。というか、動けない。
隣では、ヴァリーがすやすやと寝息を立てている。
腕と足が器用に絡みついていて、まるで抱き枕のようにされていたのは……ヴェゼルのほうだった。
彼女の腕の中は不思議と温かく、甘い花の香りがする。安心するし、心地よい。もう少しこのままでいいか、と思う。
しかし問題がひとつあった。
ヴェゼルの枕元には、サクラ用の小さな布団が敷いてある。
……はずだったのだが、当のサクラは布団から見事に飛び出しており、しかもヴェゼルの髪の毛に絡まりながら、まるで毛布代わりにして眠っていた。
「……絶対あとで絡まりをほどくのが大変になるな」
心の中でぼやく。朝一から自分の髪が鳥の巣になる予感しかしなかった。
視線を戻すと、ヴァリーの寝顔が目の前にあった。
穏やかな表情。微かに揺れるまつ毛。
「綺麗だな……」と、無意識に呟く。
寝息がかすかに唇を震わせて、髪が頬にかかっていた。
むず痒そうだから、とそっと退けてやろうとしたその瞬間――ヴァリーの瞼がふわりと開いた。
目と目が合う。不思議な間が流れた。
そして、ヴァリーは迷うことも照れることもなく、ほんの軽く唇を寄せた。
チュッ、と小さな音。「……おはようございます、ヴェゼル様」
「……お、おはよう……ございます」
言葉が出るよりも先に顔が熱くなる。
ヴァリーはふっと笑い、ようやく腕を緩めてくれた。だが、起き上がろうとはしない。
「もう少し、このまま寝ましょう?」
「……うん…」
気づけばヴェゼルも頷いていた。再び抱かれ、またまどろみに沈んでいく。
次に目を覚ましたときは――騒がしい悲鳴でだった。
「ぬ、抜けれないーー!!」
髪を引っ張られる痛みに、ヴェゼルは半ば悲鳴混じりに目を開ける。
案の定、サクラがヴェゼルの長い髪の毛にぐるぐる巻きになって、もがいていた。
「ちょ、ちょっとサクラ!動かないで!」
「だって動けないのー!!」
その声でヴァリーも目を覚ます。寝ぼけ眼のままサクラを見ると、思わず吹き出した。
「ふふっ……これは見事に絡まってますね」
「笑いごとじゃないわよ!」とサクラが抗議する。
ヴァリーは苦笑して、「二人とも動かないでくださいね」と言い、丁寧に髪をほぐしはじめた。
それからおよそ十分後、ようやくサクラが自由になる。
「もう、ヴェゼルの髪の毛が悪いんだから!」
「どう考えても絡まったのはサクラのほうだろ……」
ヴェゼルが呆れると、サクラはぷいっと顔をそらして、「お腹すいた!ごはん食べよ!」とごまかした。
三人は着替えて一階へ降りる。
広間にはすでにルークスが座っており、朝食の準備が整っていた。
「おや、おそよう。昨夜はおたのしみでしたね」
わざとらしい笑顔。
ヴァリーの顔がみるみるうちに真っ赤になった。
「る、ルークスおじさん!そんなこと言わないでくださいよ!」
「いやいや、深い意味はないって」
「……余計に悪いです!」
笑いながらヴェゼルが席につく。パンの香ばしい匂いが部屋に満ちていた。
遅めの朝食をゆっくりと終えると、午後はまったりとした時間が流れた。
応接間のソファに三人がだらしなく座り、時折あくびをしながら本をめくったり、紅茶を飲んだり。
「こういうのを“アンニュイ”って言うんだろうな……」とヴェゼルが呟くと、サクラが「なにそれ、美味しいの?」と真顔で聞き、全員が笑った。あ、でも、これってフラグになるの?
と思った瞬間、案の定、この穏やかな時間はそう長くは続かなかった。
ノックの音。
現れたのは昨日、皇妃の背後に控えていた執事だった。整った髭と完璧な礼。
「ヴェゼル様、皇妃陛下よりお手紙をお預かりしております」
彼の手には、金の封蝋が押された封筒があった。
封を切ると、丁寧な筆致でこう書かれていた。
――明後日、午後より小規模なお茶会を催したく存じます。ぜひご出席ください。
文章の柔らかさに反して、皇妃様の正体 → 招待を断る余地はまったくない。
ヴェゼルは思わず苦笑した。
「まさかお茶会……。昨日の拝謁での話の続き、ってことですかね?」
ヴァリーが少し心配そうに覗きこむ。
「陛下のご厚意かもしれません。でも……お気をつけくださいね」
「うん、分かってます」
そう言いながらも、胸の奥にほんの少しの緊張が芽生える。
執事は静かに頭を下げ、風のように去っていった。
扉が閉まると、サクラがテーブルに乗って手紙を覗き込みながら、「お茶会って、また正装?」と興味津々。
「そうなるね。サクラはお留守番ね」
こうして、穏やかな朝から始まった一日は、次の波の予感を残したまま、静かに暮れていった。
ヴェゼルは窓辺から見える夕焼けを見つめながら、心のどこかで感じていた。
――皇妃様との再会は、ただの“お茶会”では終わらないだろうな。
そして、遠くでサクラがくしゃみをひとつ。
「誰か、あたしの悪口言ったでしょ!」
「……いるわけないでしょ、既往 → 昨日布団にはいらなかったから……」とヴェゼルが返す。
そんな何気ないやりとりに、ヴァリーの笑い声が静かに重なった。
明日もまた、きっと賑やかな一日になる。




