第192話 いよいよ皇妃との拝謁01
ここで、訂正です。185話が丸々抜けていました。
話の辻褄があっていませんでした。申し訳ありません。
2025年10月6日8時56分以前に、
185話を読んでいた方にお詫びを申し上げます。
繋がり良く修正したので、お暇であれば、再度お読みくださいませ。
そして、ついに拝謁当日がやってきた。
朝からバネット商会の屋敷はざわついていた。召使いや護衛たちが慌ただしく動き、皆がどこか張り詰めた空気をまとっている。
長年帝都で商売を営んできたバネット商会といえど、皇妃への拝謁などそうそうあるものではない。空気の張り詰めは、否応なくルークスの胸を締めつけていた。
「ふぅ……」
鏡の前に立ったルークスは、何度も深呼吸をして気を落ち着けようとしていた。
彼は皇妃に拝謁した経験が何度もある。それでも、今回ばかりは胸が早鐘のように鳴り止まない。
理由は明白だ。――今日は自分だけではなく、ヴェゼルも一緒に皇宮に上がるのだ。しかも献上品を携え、場に臨む。些細な粗相が取り返しのつかない事態を招く可能性がある。彼の緊張は、過去の経験をいくら積んでも解けることはなかった。
彼の膝元には、白く美しい化粧箱が置かれている。
蓋を開ければ、薄い布に包まれたガラスのコップが四客、きらりと光を放ちながら収まっていた。帝都でも珍しい透き通るような輝き。
割れ物であるそれを、道中一滴の揺れでも壊さぬようにと、幾重にも布と緩衝材を重ねてある。ルークスは箱の重さを両手に感じながら、再び深く息を吸い込んだ。
一方のヴェゼルは、さすがに普段よりは神妙な面持ちをしていたものの、ルークスほど強張ってはいなかった。
年齢に似つかわしくない落ち着きが、ここでも顔を出している。もっとも、その手は小さな温もりにぎゅっと握られていた。ヴァリーだ。
「離さないですからね」
ヴァリーは頑としてヴェゼルの手を握り続けていた。まるで自分まで拝謁に同行するつもりなのかと思うほどに。
彼女にとってはヴェゼルが不安を感じる場面こそ、自分が傍にいるべき時なのだろう。
ヴェゼルは心中で少し苦笑しながらも、無理に振り解くことはせず、そのまま握り返した。
対照的に、サクラはといえば、朝からすっかり自由気ままだった。
「今日は宮殿まで行くんでしょ? でも私は関係なーい」
そう言って、彼女はヴェゼルの収納箱にするりと潜り込んだ。箱の中でバネット商会の料理人に頼んで持ち込ませた大量のおやつに埋もれているのだろうか。
中を覗くと、サクラは、クッキーやお菓子を抱えながら、ヴェゼルと目が合うと、「今日は食っちゃ寝の日!」と高らかに宣言する始末である。
「……本当に妖精なのか? どちらかといえば、堕天使じゃなくて堕妖精じゃないか」
ヴェゼルは心の中でぼやく。だが、この緩さが妙に場を和ませてもいるのだから不思議な存在だった。
やがて、支度が整った一行は、商会でもっとも豪奢な馬車へと乗り込んだ。
濃紺の塗装に銀の装飾をあしらった特注の馬車である。今日は特別に、皇妃への拝謁であるため、商人の馬車であっても宮殿前まで入ることが許されていた。
馬車が動き出すと、石畳を打つ蹄の音と、車輪のきしむ音が心臓の鼓動を煽るように響く。街の喧騒を抜けると、やがて高い塀と瀟洒な屋敷が並ぶ区画へと差しかかった。まず最初の検問だ。
鎧姿の兵士が二人、槍を交差させて馬車を止めた。
「通行証を」
ルークスが懐から許可証を取り出し、恭しく差し出す。
兵士が封蝋と印章を確かめ、目を細めた。次の瞬間、彼らは顔色を変え、すぐさま槍を下ろして道を開けた。
「ご通行を」
馬車の内部を軽く調べただけで、あっさりと通された。
貴族街は華やかでありながらも雑多だった。低位貴族の屋敷が並ぶ一方、大商人の店舗も軒を連ね、華やかな馬車が行き交っている。
通りを抜けるたびに、香の匂いや馬具の金属音が入り混じり、帝都の繁栄を象徴する光景が広がっていた。
だが、次の区画に入ると空気は一変した。高位貴族が住む貴族屋敷街である。
整然と並んだ白亜の邸宅、広い庭を囲う高い柵、通りに並ぶ衛兵たち。
ここでも検問が待ち構えていた。
兵士は厳しい眼差しで馬車を覗き込んだが、皇妃の許可証を見せた途端、態度を改めたように通行を許した。
「……やはり重みが違うな」
ルークスは小声で呟いた。彼の掌は汗ばんでおり、膝の上の箱を強く抱え込んでいる。
さらに進むと、壮麗な宮殿の尖塔が遠くに見え始める。緊張は否応なく高まるばかりだった。
宮殿の門前では、さらに厳重な検問が行われる。ここでは馬車ごと調べられ、荷物も細かく検査された。
ルークスの箱も一度は開けさせられたが、兵士は息を呑んで中のガラス製品を覗き込み、すぐに閉じて扱いを改めた。
そしてついに、宮殿の正門をくぐる。高い天井に大理石の床、荘厳な装飾が施された広間。その空気は、ただ立っているだけで背筋が伸びるほどに澄んでいた。
ヴェゼルたちはまず拝謁を待つ者たちのための控えの間へと通された。そこは広々としてはいたが、余計な装飾はなく、緊張を和らげるための静謐な空気が漂っていた。
ここで、ヴァリーとサクラとは別れることになった。
サクラはヴェゼルの収納箱に籠もったまま、気楽に手を振っただけである。ヴァリーはというと、別れ際にヴェゼルの手を強く握りしめ、潤んだ瞳で言った。
「必ず、何かあったら私のところに逃げてきてくださいね。絶対に」
ヴェゼルは苦笑しながらも頷いた。
「皇宮の中でそんなことはないと思うけど……万が一の時は、そうします」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァリーは思わずヴェゼルを抱きしめた。
侍女がわずかに目を丸くしたが、誰も咎めはしない。強い絆がその場を覆っていた。
やがて、侍女が静かに声をかける。
「それでは、こちらへ。皇妃陛下がお待ちです」
ルークスは箱を抱え直し、緊張で顔を硬くする。ヴェゼルは小さく息を吐き、気を引き締めた。
いよいよ、皇妃との拝謁だ。




