第191話 ベンティガとルークスの会話
応接間には、夜の静けさがゆるやかに満ちていた。大きな窓からは月明かりが差し込み、淡い光が分厚い絨毯と深紅のソファを照らし出している。
磨き込まれた木製のテーブルの上にはランプが置かれ、温かい炎が揺らめいていた。
屋敷全体が静まったこの時間、重厚な扉の向こうから聞こえてくる物音はほとんどなく、ただ遠くで夜番の兵士が靴音を響かせて通り過ぎるだけだった。
その落ち着いた空気の中に、ルークスとベンティガ――二人の男が残っていた。
ベンティガがゆったりと背もたれに身を預けて口元に笑みを浮かべていた。
「孫も……隅に置けないのう」
静けさを破るその声は、重みを持って部屋に響いた。
「もう一人、婚約者がいるのであろう?」
突然の言葉に、ルークスは苦笑を浮かべ、頷いた。
「……ああ。隣領のヴェクスター男爵の娘だ。とてもいい子でな」
短く答えると、彼の口調には、どこか誇らしげな色が混じっていた。
血の繋がる甥であり、自らを振り回すほどの影響力を持つ少年――ヴェゼル。その周囲には、いつの間にか温かな人間関係が築かれている。
それを思うと、ルークスの胸にはほんのりとした安堵が広がるのだった。
だが、ベンティガは、またにやりと笑みを浮かべ、太い指で髭をひと撫でし、わざとらしく声を低くした。
「ほう……『スケコマシ』とは、まんざら噂でもなかったというわけか」
「は?」と、ルークスは思わず声を上げる。
「先ほどの態度と言い、妖精のサクラ殿への接し方と言い……あれはあながち、的外れではなかろう。女心を掴むのがうまい、というのかのう。はっはっはっ」
豪快な笑いが応接間に響いた。
ルークスは額に手をやり、困ったようにため息をついた。「……オヤジ、その言葉はヴェゼルには言うなよ」
「ふむ? なぜじゃ?」
「本人、気にしてるんだよ。あれでもな」
「おお、そうかそうか。わかっておる。冗談じゃ、冗談」
ベンティガは肩を揺らして笑ったが、その瞳の奥に浮かぶ光は冗談だけではなかった。彼はふと笑みを引き、重々しい沈黙のあとでぽつりと呟いた。
「……しかし、ヴェゼル殿は――非常に危うい」
その声色が変わった瞬間、ルークスの背筋がぴんと伸びた。
「危うい?」
「うむ。一目見て、理性的で賢いのが分かった。それに、あの年齢にそぐわぬ落ち着き……。そして、ビック領で次々と生み出される新商品の数々。どれも、ただの思いつきではできぬものだ」
ベンティガは視線を遠くに漂わせながら、過去の光景を思い起こすように語りを続けた。
「戦場でのあの子の逸話も耳に入っておる。鬼謀童子――あの呼び名は、伊達ではあるまい。年端もいかぬ子供が本陣に奇襲を仕掛け、しかも総大将を捕縛した。そんな話、常識では信じられぬだろうな。だが、あの子と接すれば、聡い大人ならわかるであろう。あの噂は真実だったと。」
ルークスは、ただ相手の口から零れる声に耳を傾けた。
「……あれほどの知略と胆力を持つ子供など、わしの長い人生でも聞いたことがない。しかも、ただの戦の偶然ではあるまい。考え抜いた末に掴んだ勝利だ」
ベンティガの声は、重く部屋に沈み込む。応接間のランプの灯りが、彼の皺の深い顔をより陰影濃く照らし出していた。
「深くは聞かぬ。だが……『容量がりんご一個分しかないハズレ魔法』などと呼ばれておるが、あれがただの噂で、真実は別にありそうなことは、わしにもわかる」
ベンティガの眼差しが鋭くルークスを射抜いた。
ルークスは反射的に目を逸らしたが、その仕草自体が何よりの答えだった。
「……まだまだよのう。お前の顔に、すべて出ておったぞ」
低い声で指摘され、ルークスの頬がわずかに赤くなる。沈黙が応接間を覆い、夜気の冷たさが窓の隙間から入り込むように思えた。
ベンティガは、笑みを消して低い声で言葉を継いだ。
「……皇妃殿下の庇護を受けるのは、確かに大きな利点だ。庇護を受けることで、余計な横槍を避けられるし、帝都の貴族として一目置かれる。だが――」
そこで彼は鋭い眼差しをルークスに突きつけるように向けた。
「近づきすぎれば、呑み込まれるぞ。高位貴族や皇族というものは、結局は己の家の利を第一に考える。義や情に見えても、その実は秤の上に『利用価値』を置いて判断する。我々にとっては最良の庇護者であると同時に、最悪の怪物でもあるのだ。お前はその距離を見誤るな」
ルークスの背筋を冷たいものが走った。わずかに肩が震え、喉の奥で言葉が詰まる。なんとか「……わかった」と搾り出す声は、息と共に掠れていた。
ベンティガは自分の息子をじっと見据え、さらに低く重い声で告げた。
「覚えておけ、ルークス。高位の貴族に取り込まれて家が失われた商人や名門は、枚挙に暇がない。財貨も人脈も、すべて高位貴族や皇族に吸い上げられて骨だけ残った例を、わしは嫌というほど見てきた。奴らにとっては商人も騎士も同じ、必要なときに使い潰す道具にすぎんのだ」
そこで一拍置き、彼は言葉を続ける。
「……だからこそ、バネット商会も、わし自身も、そしてお前も、命を懸けてヴェゼル殿やオデッセイ、さらにはビック領そのものを守らねばならん。もう時は過ぎたのだよ。今更後戻りは出来ん。あの子らは、ただの商売相手でも保護者でもない。未来を繋ぐ我らの『根』だ」
ルークスが深く頷くと、ベンティガはわずかに視線を伏せ、独り言のように呟いた。
「そのための皇妃殿下の庇護は、何よりの盾となる。だが、それだけに甘んじるわけにはいかん。盾に寄りかかれば、いつか足元を掬われる。自らの足で立たねばならんのだ」
そして、老商人は膝の上で手を組み、指を強く握り合わせながら言い切った。
「商人の『力』とはな、金貨や兵の数だけではない。取引の網を広げること、信を積み重ねること、人と人とを繋ぎ、文化や情報を運び、時には時代を動かすほどの流れを作ること――それこそが真の力じゃ。武力など最後の手段にすぎん。わしらは、剣ではなく商いで人を動かし、守る力を磨かねばならん」
その声は、長年帝都の荒波を泳ぎ抜いた者だけが持つ重みを帯びていた。
ルークスはその言葉を噛み締め、胸の奥に刻み込む。ベンティガの横顔には、覚悟と同時に、未来を憂う影が落ちていた。




