第187話 バネット商会04
お風呂でさっぱりと身を清めた後、ヴェゼルたちはベンティガの広間に集まり、豪勢な食事に向かった。
石造りの暖かい広間には、キャンドルの柔らかな光が揺れ、料理の香りが立ち込める。
ベンティガはご機嫌で、ルークスも少しはしゃいだ様子だ。
サクラはまだポケットの中に残る小さなお菓子を取り出しては、口に放り込みながら、テーブルの上を行ったり来たりしている。ヴァリーは、微笑みを浮かべている。
ベンティガがふと身を乗り出し、にこやかに訊いた。「そういえば、この帝都にはどうやって入ったのだ?」
ヴェゼルが、門での守備隊とのやり取りをざっくり説明する。
「入り口でちょっとしたいざこざがあって……」
ベンティガの目が光った。「その話にあった銀のメダルを見せてくれないか?」
ヴェゼルはバッグから取り出し、手渡す。はじめはなにげなく眺めていたベンティガだが、次第に手が震え始め、声を上げる。
「こ、こ、これは!」
ヴェゼルは苦笑しながら、フリードから聞いたことを簡単に伝える。
「直参のメダルらしくて、これを持ってると帝都で優遇されるとか言ってたんですが……かえって面倒なことに巻き込まれました…」
ベンティガの目がさらに見開かれ、怒気を帯びた声で言った。
「そんな軽いものではありませんぞ! このメダルは、帝国内でこれを掲げる者の歩みを何人たりとも阻んではならぬ証! 高位貴族であっても、普通は馬に乗ったままでは皇宮前しか行けぬのです。しかし、これを持つ者は、皇宮の中、いや皇帝の寝所さえも誰に咎められることなく入れるのです。私も初めて見ましたぞ!」
ヴェゼルは肩を落とし、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「なんだよクソオヤジ!そういう大事なことは教えておけよ……そりゃ守備隊長の顔色も変わるわけだ」
と、心の中で、罵声を浴びせた。これは帰ったら、アクティに言ってお灸をすえてもらわねば。
一同はしばし、そのメダルの重みと権威に圧倒されながらも、内心で微かに笑みを浮かべていた。
次に、話題は自然に商売のことに移った。ベンティガが、ルーカスの兄カデットのことを話題に出す。
隣国 → 隣領 クオン伯爵の領都ノアにあるバネット商会本店の責任者で、しっかりと仕事をこなす人物だという。
ルークスも信頼しており、今度ヴェゼルも会うと良いだろうと言う。
羊毛の輸出も盛んであることを聞き、ヴェゼルは少しだけ反応した。
実はオデッセイの助言を受けて領内で羊を飼い始めたものの、牛を数頭飼う農家に預けているだけで、羊の飼育は本格的ではなく、畜産事業としては成功していなかったのだ。
ベンティガはその話に興味を示し、少し考え込むようにうなずいた。
「羊毛の件は、私からもカデットに話しておこう」
「さて、今後はどうするのかね?また何か新しいものでも作るのですかな?」
ベンティガが穏やかに問いかける。
ヴェゼルは少し考えてから話す。
「まだ試行段階で、ルークスおじさんにも言ってないのですが…大きな板ガラスが作れる様になったら、全身が映る鏡を作ってみたいです」
その言葉に、ベンティガは思わず椅子から立ち上がった。ルークスも思わず立ち上がり、目を丸くする。
「ガラスだけでなく、鏡までも!」ベンティガは口を開けたまま、しばらく沈黙する。
ハッとして、ベンティガは深く息をつき、「いや、これはすまぬ。だがガラス一枚でさえ、ビート・ドワーフ王国では国が管理するほどの貴重な技術だ。家一軒が買えるほどの値段である。ましてや、全身を映す鏡となれば、世に数枚しか存在しないかもしれぬ」
ヴェゼルはその情報に驚きつつも冷静を装う。ベンティガは続ける。
「今伝わっているのは、ビート・ドワーフ王国の王室に一枚、トランザルプ神聖教国に一枚。そして帝国の皇家にも存在するらしいが、手のひらサイズほどのものだ。全身が映る大きなものは、国宝と呼ぶに相応しい」
ルークスも口を挟む。「貴族は青銅製の鏡を持つのが精一杯だ。だが、それでも非常に高価なんだよ」
ベンティガは眉をひそめ、「さらに問題は、ガラス製法自体がビート・ドワーフ王国以外にはほとんど広まっておらぬこと。ましてや、ガラス製の鏡など見たことがある者はごく僅かだ。もしこれを作れることが広まれば、国と敵対する可能性もある。命の保証もない」
ヴェゼルとルークスは、目を見合わせる。サクラは興奮気味に小さく飛び跳ねる。「それって、超貴重ってことね!さすが私のヴェゼル!」
そして、ベンティガは給仕たちに視線を移し、厳しく言い渡す。
「ここで聞いたことは絶対に口外するな。もし外に漏れた場合、バネット商会のあらゆる術で一族郎党の命の保証はないと思え!」
給仕たちは青ざめ、一斉に声を揃える。「今聴いたことは全て忘れます!」
食事はその後も続き、豪華な料理が次々に運ばれてくる。肉料理に香ばしいパン、濃厚なスープ、そしてワイン。
サクラはふんわりしたパンを口いっぱいにほおばり、ヴァリーは微笑みながらサクラの動きに目を細める。
ヴェゼルは箸を止めず、淡々と食事を進めるが、心の中では、これだけの人々に囲まれ、帝都にいる実感を噛みしめていた。
ルークスはにやりと笑い、ヴェゼルに目配せする。「新しい鏡の件、なかなか刺激的だな」
豪華な食事と共に、初めての帝都での夜は、笑いと驚きと期待に満ちた時間となった。
部屋に移動して就寝する直前、意を決してヴァリーが小声で言った。
「あの……私とヴェゼル様は、一緒の寝室で……」
ルークスは思わずにやりとし、ベンティガは目を丸くして「ほほう、噂の『スケコマシ』は、まことなのだな!」と笑い声をあげる。
ヴェゼルとヴァリーは顔を真っ赤にしてもじもじした。
サクラは勢いよく「私も一緒に寝るのよ!」
部屋中に笑いが広がった。給仕たちですら、思わず肩を震わせて苦笑するしかなかった。




