第184話 ついに帝都の中に。まずはバネット商会に
帝都の高い城壁が視界に入った時、ヴァリーと手を繋いでいるヴェゼルは胸の奥に妙な緊張を覚えた。
ようやくここに辿り着いたという安堵感と、これから何が待ち受けているのかという不安が入り混じっている。
馬の蹄音が硬い石畳に響き、門の前で行列を成す人々のざわめきが風に乗って耳に届いた。
門を通ると、視界に飛び込んでくるのは活気に満ちた帝都の街並みだった。
城郭都市特有の、きっちりとした区分けが目に見えて分かる。
ルークスが説明してくれる。
中心には皇帝が住まう宮殿が聳え、その周囲を高位貴族の屋敷群が取り囲み、さらに外側には低位の貴族や大商人の商館が並ぶ貴族街が広がる。その街区ごとに、検問があるそうだ。
そしてさらにその外周部には、庶民や商人の街区がひしめき合っていた。西の片隅には、遠目にも薄暗さが漂う貧民街が広がっており、都市の光と影がはっきりと分かれているのが一望できた。
人の波に圧倒されながら、ヴェゼルは思わず過去を思い出していた。
(東京の雑踏もすごかったけど……ここも負けてないな)
人いきれ、香辛料の匂い、商人たちの呼び声、荷車の軋む音。五感すべてが騒がしく刺激される。街全体が熱を持っているようで、歩くだけで身体が浮き立つようだった。
ルークスが隣で、得意げに胸を張りながら言った。
「なぁなぁ、すげぇだろ? ここが俺の庭みたいなもんだ! ほら見ろよ、あそこの焼き栗屋、あそこの串肉屋、どっちも俺のツケで食べれるぜ!」
「……ツケって、払ってないってこと?」
思わず呆れた声が漏れると、ルークスは「ははっ」と軽く笑ってごまかした。
「まぁまぁ、細かいことはいいんだって! 俺と親父の顔を知ってるから、いざとなりゃ商会がまとめて払ってくれるの!」
「商会泣かせですねぇ……」
ヴェゼルが小さくため息をつくと、ヴァリーが横でくすっと笑った。
「でも、久々にこの帝都の活気のある街並みを見ると、ちょっと心が躍りますね」
彼女の目は輝き、建物の装飾や人々の衣装に興味津々といった様子だった。
本来であれば、皇帝直参の立場にあり、フリードの名代であるヴェゼルは、馬に乗ったまま宮殿の前、いや、直参はその中の皇宮の前まで堂々と騎乗したまま乗り入れできる権利を持っていた。
しかしそんな特例を、わざわざ脳筋のフリードがヴェゼルに、それを教えるような気の利いたことをするはずもない。だから、結局ヴェゼルは何も知らず、門を抜けた後、馬を降りて人の群れに混じり歩き始めていた。
やがて、ルークスが指を伸ばしながら言った。
「まずは俺んとこの商会だな! ほら、そこだよ。でっかい建物見えるだろ?」
視線の先に見えたのは、三階建ての立派な建物だった。大きな看板には「バネット商会」と刻まれ、堂々とした佇まいを見せている。入口からは人の出入りが絶えず、店内からは賑やかな声が漏れていた。
「これが……バネット商会……」思わずヴェゼルは感嘆の声を上げた。
一階は一般の店として開放されており、ヴェゼルにとって見覚えのある品々が並んでいた。
知育玩具や木製のそろばん、革でできたサッカーボール、さらにはホーネットシロップも瓶詰めで整然と並んでいる。その奥、棚の中央には、たった一本のホーネット酒が特別な輝きを放っていた。
「まるで宝物みたいだな」呟くと、ルークスがにやりと笑った。
「だろ? あれ一本で屋台が何軒も出せるくらいの価値があるんだぜ。ビック領様様だよ」
二階へと上がれば、そこは貴族相手の商談用スペースらしく、豪奢な調度品や高級品が並んでいた。そして三階が居住区であり、案内されたのは一番奥にある応接間だった。
重厚な扉を開くと、整えられたテーブルに茶器と菓子がすでに用意されている。ソファに座り、湯気を立てる紅茶と、彩り豊かな焼き菓子が皿に並べられていた。
「おいしそー……」
思わずサクラがポケットの奥から顔を出し、よだれを垂らしそうになっている。ヴェゼルが慌てて押し戻したが、すぐに小声で囁かれる。
「ねぇ、あれ、私にも食べさせて」
「ダメ。人前だし……」
「じゃあ、ポケットに入れて!」
渋々クッキーをポケットに押し込むと、ヴァリーが隣で肩を震わせて笑っていた。
これをやると後でポケットからボロボロとお菓子のかけらが出てくるので、あまりやりたくなかったのだ。
やがて、重々しい足音と共に扉が再び開く。入ってきたのは恰幅の良い老人で、その背後には執事と侍女が控えていた。威厳を漂わせた佇まいは、ただ者ではないとすぐに分かる。
「こいつが、じいさんが会いたがってたヴェゼルだ!」
ルークスが得意げに紹介すると、老人の目がヴェゼルを射抜くように見つめた。
一瞬の沈黙ののち、老人の顔がふっと崩れ、優しい笑みが広がる。
「ヴェゼル様、はるばる、ようおいでくだされた」
その言葉にヴェゼルは背筋を伸ばした。
「私のおじいさんなのであれば、『様』は不要です」
そう言うと、老人はソファから立ち上がり、がばりと抱きついてきた。
「よくぞ来てくださった! ヴェゼル殿!」
その喜びは本物であり、長年待ちわびたものに出会ったかのような熱意があった。
視線を横に向けると、老人の目はすぐにヴァリーへと移る。
「あなたが……ヴェゼル殿の婚約者、ヴァリー殿ですな」
ヴァリーは優雅に礼を取り、穏やかな声で挨拶を返した。
ルークスがヴェゼルの目を見た後、ポケットを見ながら口を挟む。
「安心しろよ、ここにいる人たちは全員信頼できる。外で口にするような連中じゃねぇ」
その言葉に頷き、ヴェゼルはそっと名を呼んだ。
「サクラ」
すると、案の定、ポケットから飛び出した小さな影が、またまたクッキーをほっぺに詰めたまま現れる。
「んぐっ……なんで食べてる……時に呼ぶ…のよ!いつも……そうよね!」
それは、いつもサクラが食いしん坊で、食べてるばっかりだから。とは、口が裂けても言えないヴェゼル。
口をもごもご動かしながらも、無理やり飲み込むと、飛び上がって腰に手を当てる。
「私は闇の妖精サクラ! ヴェゼルの妖精第一夫人よ!」
突然の宣言に、部屋の空気が一瞬凍り付いた。執事も侍女も目を丸くし、老人までもが固まっている。
「……これが、伝説の妖精か」
そのつぶやきには驚愕と畏敬の入り混じった響きがあった。
ヴェゼルは念のため、低く告げる。「サクラのことは、口外禁止でお願いしますね」
老人は深く頷き、即座に答えた。
「承知いたしました。私も、この場にいる従業員も決して漏らしません。商人にとって信用は命。どうぞご安心を」
その言葉には確かな重みがあり、ヴェゼルの心も安堵に包まれた。




