第177話 侵入者03
翌朝。領館の朝は、昨夜の緊迫した空気をまだ引きずっていた。
館の空気は、普段よりも少し重く、皆の動作がどこかぎこちない。夜の不審者騒ぎは表沙汰にしていないものの、警戒の色は隠しきれなかった。
ヴェゼルもまだ胸の奥に残る微かなざらつきを感じていたが、それを表に出すことなく、朝食の席に着いていた。
そこへ――。
扉が荒々しく開かれ、一人の男が駆け込んできた。その後兵士が二人。銀の刺繍を施した青いマント、胸元にはトランザルプ神聖教国の紋章。間違いなく彼らの司祭の一人だった。
「大変です! 我が教国のクルセイダーの一人が、東の柵の前で倒れているのが発見されました! 生きてはいるが、意識がないのです。これは一体どういうことなのですか!」
声は大広間に響き渡り、居合わせた者たちの背筋がわずかに伸びた。
フリードが言葉を選びかけたそのとき、先に応じたのはオデッセイだった。いつものように落ち着き払った表情で、彼女は司祭を正面から見据える。
「それについては、すでにうちの従者からも報告を受けています。すぐに兵士を動かして、村の者や旅人たちから聞き込みをさせているところです」
「……聞き込み、だと?」司祭が眉をひそめる。
「当然でしょう? わたしたちにとっても、領内で意識不明の人間が発見されたとなれば、由々しき事態ですから」
オデッセイの声音は淡々としていたが、その奥には冷ややかな芯があった。
そこで彼女は逆に問いを投げた。
「ところで――その倒れていた方は、この領内で何をなさっていたのでしょうか? 貴方はご存じですか?」
司祭の表情が固まった。視線が泳ぐ。答えに窮しているのが誰の目にも明らかだった。
オデッセイは畳みかけるように言葉を重ねる。
「ビック領では、『普通に』生活している村民や商人との間で、多少の揉め事はあっても、大きな事件など起きたことがありません。わたしたちも心配しているのです。その方が、どういう経緯で意識を失ったのか。教えていただければ、こちらとしても事件の解決に尽力できるのですが?」
そのやり取りを横で聞いていたヴェゼルが、一歩前に出た。
まだ幼い顔立ちだが、眼差しは静かに鋭く光っている。
「僕からもお願いしたいです。その倒れていた方がいつ、どういう状況で姿を消したのか。そして、直前に何をしていたのか。……真実を突き止めるためには、詳細な情報が必要です。こちらも捜査に協力しますから、ぜひ教えていただきたい」
ヴェゼルの声は落ち着いていた。だがその穏やかさが、かえって司祭を追い詰めたようだ。
彼は立ち上がり、声を荒げた。
「ふ、ふざけるな! この件は本国に伝えさせていただく! お前たちに真実を知る資格などない!」
そう叫び、席を蹴るようにして立ち去ろうとした。
その際、振り返りざまに吐き捨てる。
「無能な、ハズレ魔法使い風情が……!」
ヴェゼルは微動だにせず、その罵声をただ受け止めた。表情には動揺の影すら浮かばない。
扉が閉まり、足音が遠ざかると、大広間には重苦しい沈黙が落ちた。
「……はぁ」
最初にため息をついたのはオデッセイだった。彼女は肩をすくめてみせる。
「予想通りね。本国に言いつけるでしょうけれど、実際に何が起きたかを正しく説明できるわけでもない。せいぜい追加で人を送って調べさせる程度よ。問題はないわ」
フリードが腕を組み、低い声で応じた。
「いずれにせよ厄介なことになる。距離的には、不帰の森を抜ければ十日もかからん。だが、それは不可能だ。それに通常の道を通れば三ヶ月はかかる。どちらで来るかはわからんが、必ず何かしらの動きがあると思え」
しばらく後、館の扉を叩く音がした。入ってきたのはグロムだ。
彼の顔はいつも以上に硬かった。
「報告がある。トランザルプ神聖教国の一行は、ホーネット村の柵の外に豪華な馬車や軍馬を駐留させていたようだ。だが、門の兵士の静止を無視して――いきなり村に乗り込み、そのまま自分たちの宿舎に入った。そして関係者を乗せて、慌ただしく走り去ったようだ」
「な……!」
居並ぶ面々に緊張が走る。村を無視して馬車を突入させるなど、明らかな挑発行為だった。
「幸い、怪我をした者はいなかったようだ」グロムは淡々と続けた。
フリードが深く息を吐き、渋い顔をした。
「怪我人が出なかったのは不幸中の幸い、か。……だがこれで、やつらがこちらに敵意を持っているのは明白だな」
オデッセイが頷いた。
「今後はこちらも覚悟を持って動く必要があるわね。念のため、今回の件のあらましを皇都に送っておきましょう。ただし――」
彼女は一瞬、ヴェゼルを見てから言葉を選んだ。
「あくまで『道で勝手に意識を失っていたクルセイダーの兵士がいた』という形にするわ。余計な火種を抱え込む必要はないからね」
フリードも同意するように頷いた。
「そうだな。皇妃陛下に手紙を送るのは妥当だ。ビック領が不当な干渉を受けている事実を知らせておくことは、我らの防衛策にもなる」
「決まりね」オデッセイが短く言った。
会議の空気は、どこか冷たい決意に満ちていた。
昨夜の不審者は氷山の一角にすぎない。背後には教国という巨大な影がある。彼らはこの地に踏み込み、力でねじ伏せようとするだろう。
だがヴェゼルは静かに拳を握った。胸の奥には、不思議と恐怖はなかった。ただ、守るべき仲間と領地のために戦う決意だけが、澄みきった炎のように燃えていた。




