第176話 侵入者02
しばらくして、重い足音とともにグロムが戻ってきた。
その体は暗がりに溶け込み、まるで館そのものの影が歩いてきたかのように見える。彼の腕にはすでに何も抱えられていなかった。
「……“アレ”は、人通りの少ない東の柵の脇に置いてきた」
無骨な声が響く。表情は変わらず、まるで石像が言葉を発しているかのようだ。
「誰にも見られていないだろう。明日の朝に誰かに見つかるまでは、死にはしないだろう」
その場には、ヴェゼルの他に、フリード、オデッセイ、ヴァリー、そしてカムリが集まっていた。皆、緊張に顔をこわばらせていたが、どこか安堵の気配も混じる。
ただひとり、空気を読まぬ存在がいる。
ヴェゼルの頭の上にちょこんと乗ったサクラは、ぐでんと寝転がり、上を向いたまま大きく寝息を立てていた。
鼻からは透明の小さな提灯がぷかぷかと膨らんでは萎んでいる。その滑稽な姿が、張り詰めた場の空気をわずかに和ませていた。
ヴェゼルは、集まった仲間に向けて、侵入者との一部始終を淡々と語った。
彼の声は感情を抑えていたが、その冷徹な処置の内容に皆の背筋が寒くなるのを感じた。それでも、彼がいなければ今頃どうなっていたかわからないのだ。
語り終えたとき、隣に座っていたヴァリーがそっとヴェゼルの手を握り締めた。その手は温かく、握る力は強かった。
「……よくご無事で」彼女の囁きにヴェゼルは目を細め、わずかに頷いた。
最初に口を開いたのはオデッセイだった。
「この居館に無断で侵入したのだから……殺されても文句は言えないわ。むしろ命があっただけでも、あの者は幸運だと思わなければならないわ。侵入した理由は大体の想像は着くわね」
毅然とした声だったが、瞳にはわずかに影が落ちていた。
オデッセイは言葉を続ける。
「ただ……こちらに侵入者を排除できる力があると、向こうに知られてしまったわね」
フリードが顎に手を当て、考え込むように言った。
「だが、それで良いんじゃないか。こちらに対抗策があると知れば、容易に手を出せなくなるはずだ。これまでは俺たちを甘く見ていたのだろう」
カムリもうなずく。
「確かに……排除できる力があると分かれば、次はもっと慎重に来るかもしれません。逆にこれは良い牽制にはなりますね」
グロムは無言のまま頷いた。それだけで場の意見はひとつにまとまる。
フリードが視線を巡らせる。
「しかし今後のことを考えると、警戒を強める必要がある。今回はサクラが気づいたから良かったが、そう易々と侵入されては困る」
すると、ヴァリーがすっと立ち上がり、真剣な表情で宣言した。
「今後は……私が毎日、ヴェゼル様と一緒に寝ます!」
一瞬、場の空気が凍りついた。
オデッセイもフリードも、そしてカムリまでもが言葉を失い、互いの顔を見合わせる。沈黙の中に微妙な空気が漂う。
フリードは咳払いをして、しどろもどろに答えた。「ま……それは……お前らに任せる」
ヴェゼルは横を向くと、ヴァリーが嬉しそうに目を輝かせていた。ヴェゼルは説明のつかない微妙な苦笑いの感情が波打つ。
オデッセイが咳払いをして、話を元に戻した。
「で、本題に戻るけれど……。明日の早朝、悪いけど、トランザルプ神聖教国の宿舎に報告してほしいの。『クルセードらしい人物が道で倒れているのを見つけた』と」
彼女の視線を受けて、グロムは静かに頷いた。
「わかった。俺が見つけたことにする。……館のことは一切知らぬと通せば良いのだな?」
「ええ、それでいいわ」オデッセイは力強く答える。
「この館も、領としても、なぜ“アレ”がそこに倒れていたのかは知らない。――そういうことにしましょう」
皆が頷く。やがて、オデッセイはフリードを見つめた。
「もしも明日、神聖教国がこの館に問いただしに来たら……。フリード、あなたは外に出ていることにして。対応は私とヴェゼルで行う」
フリードは眉をひそめた。
「……俺はすぐに顔に出るからな。確かに任せた方がいいかもしれん。すまんが頼む」
「いいのよ」オデッセイは穏やかに微笑む。
「あなたが領主として疑われぬように、私たちが前に出るわ」
議論はまとまり、皆は順に寝室へと戻っていった。
「……では、今日はもう休もう」フリードがそう締めくくり、重い夜がようやく終息へと向かった。
ヴェゼルもまた自室へと足を運んだ。
頭の上には、いつの間にか起きていたサクラが乗っている。彼女は半分寝ぼけながら、「ヴェゼル、抱っこ抱っこ」とわがままを言い、そのままぺたんと頭に張り付いた。
手を繋いで横を歩くヴァリーは、にこにこと笑みを浮かべている。彼女は布団に先に近づき、ヴェゼルを呼び寄せた。
「怖かったでしょう?」
その言葉とともに、彼の頭をそっと抱きしめる。胸元に押し当てられ、甘やかな香りに包まれると、先ほどまでの緊張がふっと解けていった。
ヴァリーは囁く。
「ヴェゼル様の年齢で……“怖くなかった”なんてことはないでしょうに」
その声は優しく、けれど確信を帯びていた。彼女自身も恐怖を感じていたのだろう。だからこそ、共にそれを分かち合いたいと願っていた。
オデッセイからも「今日はヴェゼルと一緒にいてあげて」と言われたようだ。
結局、そのままヴァリーに抱かれるように布団に入ることになった。
普段よりも早く意識を手放し、ヴェゼルは深い眠りへと沈んだ。
そして翌朝。目を覚ますと、まだヴァリーの腕の中にいた。
彼女の穏やかな寝顔を前に、なぜか起き上がることをためらい、そのまま彼女が目を開けるまで静かにしていた。
次に目を覚ましたとき、ヴァリーが彼を優しく揺さぶっていた。
「おはようございます、ヴェゼル様」
頬に触れる温かい唇。優しいキスに、胸の奥が熱くなる。
それを見ていたサクラも、寝起きの顔で近づき、ちゅっと頬に口づけた。
「私も!」
そんな無邪気な妖精と、頬を赤らめるヴァリーに囲まれ、ヴェゼルの新しい一日が始まった。




