第175話 侵入者
その夜、館は深い闇に包まれていた。
昼間は人の出入りも多く、笑い声が絶えなかった広間も、今はすっかり静まり返り、ただかすかな風の音と、夜番の足音が遠くに響くだけである。
その静寂を最初に破ったのは、妖精サクラの甲高い声だった。
「ヴェゼル! 知らない人がいる! 館の中に知らないのが入り込んでる!」
ヴェゼルは、サクラの警告を耳にした瞬間に飛び起きた。寝間着姿のままではあったが、その動作に一切の迷いはない。小柄な体だが、常に隣にある短剣を素早く手に取り、鞘を払った。
サクラはすでに天井の梁に身を潜め、目だけを光らせている。彼女の小さな羽音は、夜気の中で不思議と心強く響いた。
「どこにいる?」と小声で問うと、サクラは指をさすように小さな手を動かす。
「廊下を歩いてる。……今、扉の前に来た!」
ヴェゼルは瞬時に判断した。ベッドに寝ているように見せかけても、侵入者が刃を向ける可能性が高い。ならば迎え撃つしかない。
彼は静かにカーテンの陰に身を隠した。剣を握る手には余計な震えもない。胸の内で鼓動が早鐘を打つのを、ただ冷たい集中力で押さえ込む。
やがて、扉がわずかに軋み、黒い影が部屋に入り込んだ。
侵入者は足音を殺して動き、机の引き出しを一つひとつ確かめ、何かを探している。薄暗い月光の下で、刃の輝きがちらついた。彼の視線はやがてベッドに向かい、ゆっくりと歩み寄る。手には冷たい光を帯びた短剣。
「……何かお探しですか?」
唐突に背後から声が響いた。
侵入者の体が硬直する。振り返ると、カーテンの陰から現れた少年の瞳が、夜の中で冴え冴えと光っていた。
「くっ…!」
侵入者は咄嗟に刃を振りかざそうとする。だがその瞬間、ヴェゼルは低く囁いた。
「収納……短剣」
侵入者の手にあった短剣の根元が消え去り残りの穂先が床に落ちる。柄だけを握ったまま、男は愕然と目を見開く。
「な、何を……!」
次の瞬間には短剣の柄を捨て腰の長剣を抜き放ち、無理やり威嚇するように切っ先を向けた。
ヴェゼルは一歩も退かず、淡々と問いかける。
「僕を殺すつもり? 無駄な抵抗はやめて、武器を手から離してください。忠告しましたからね?」
言葉に押されるように、侵入者は怒声を上げて突進しようとする。
その刹那、ヴェゼルの口から再び短い呟きがもれた。
「収納…右…大腿骨」
侵入者の右足が、不自然な音を立ててあり得ない方向に折れ曲がった。大腿骨の一部が消え去ったのだ。
悲鳴とともに床に崩れ落ちる侵入者。血は出ていない。骨が砕けたのではなく、存在そのものが抜き取られた異様な痛みに、男は悶絶する。
「ぎ、ぎゃああっ……!」
ヴェゼルの瞳には一切の感情が浮かんでいない。ただ冷静に、目の前の敵を観察するだけだった。
その騒ぎを聞きつけ、扉が開き、フリードと夜番のグロムが駆け込んできた。
「ヴェゼル!」「何事だ!」
二人が目にしたのは、床で足を曲げてのたうち回る黒装束の男。そして、グロムが近づき顔の布を外すと、その顔を見たグロムの表情が険しくなる。
「こいつ……昼間、街で見かけたクルセードの一人だ。トランザルプ神聖教国か!」
フリードは一歩踏み出し、声を低く響かせる。
「なぜこの館に忍び込んだ? 目的を言え!」
しかし男は口を固く閉ざしたまま、苦痛に顔を歪めている。
沈黙が続くと、ヴェゼルは静かに歩み寄った。
「答えないなら……左足も収納します……収納……左…大腿骨」
囁いた瞬間、男の左足がぐにゃりと曲がり、再び悲鳴が夜を裂いた。
両足を奪われた侵入者は、もはや立つことすらできない。血は流れていないのに、痛みに呻き声を上げ続ける。
その時、梁からサクラがふわりと舞い降りた。
彼女を見た侵入者の目が揺らぐ。
「やはり……噂は本当だったのか。妖精が、この地に……」
彼は震える声で続けた。
「妖精は……我らトランザルプ神聖教国が保護しなければならぬ……だから、お前は我らと共に来るべきだ!」
サクラは腕を組み、ぷいと顔をそむける。
「いやよ。私はヴェゼルと結婚するんだから! あんたなんかと行くわけないでしょ!」
小さな身体をふるふると震わせ、怒ったように言い放った。
侵入者はヴェゼルを睨みつけたが、その眼差しに力はない。やがて必死に命乞いを始める。
「殺さないでくれ……! 頼む、命だけは……」
そこで、フリードが聞く「何を探そうとして侵入した?」
しかし、侵入者は痛みに顔を歪めながらも、無言になる。
そして、ヴェゼルは冷ややかに言い放つ。
「もう両足の骨はないですし、あなたは歩けない。もう、後は死ぬだけなんですよ」
男の瞳に絶望の色が広がっていく。フリードが一瞬だけ眉を寄せたが、その後に淡々とした声で告げた。
「帝国では、この領に悪意をもって侵入した者は――僕が殺しても咎めらないんですよ」
侵入者は泣き叫ぶように首を振った。
その様子を見下ろしながら、ヴェゼルは最後に一言呟いた。
「……収納…………脳髄」
今度は頭部へと力が及び、侵入者は脳の一部を奪われた。命は奪われていないが、意識は闇に沈み、完全に動けなくなった。
ヴェゼルは小さく息をつき、グロムに視線を向ける。
「……申し訳ないけど、このままでは処理に困るので、人目につかない場所に置いてきてくれませんか?」
グロムは無言で頷き、無力な侵入者を肩に担ぎ上げた。その逞しい背が闇に消えていく。
そして、館には再び静寂が戻った――。




