第174話 なっツク その後
厨房の中は、あの大豆ネバネバ祭りの影響でまるで別世界になっていた。
床はもちろん、かまどの裏、調理台、果ては壁まで微妙に糸を引いて光っている。オデッセイがやってきて、眉を八の字にしながら声を荒げる。
「ヴェゼル!このネバネバ、どうするつもりなのよ!」
ヴェゼルはちょっと申し訳なさそうに頭をかきながら、でもすぐに表情を切り替えて、
「でも、お母さん、この納豆は絶対に酒やパンを作る場所には持ち込まないです!酵母と相性が悪いんです!」
オデッセイは目を細めて、ぶつぶつと呟く。
「だったら…なんであんなものを作ったのよ…」
ヴェゼルは小声で、肩をすくめながら、「だって、食べたかったんだもん…」
頭のサクラも「もう、あれは当分禁止ね!匂いもベタベタも取るのが大変だったんだから!」
ヴァリーは小さく笑いながら、「私は、嫌いじゃなかったですけど…」
フリードも自分の足を見ながら、「俺も、好きだったんだが…」と言う。
オデッセイは苦い顔でフリードの足と顔を交互に睨みつけ、注意を加える。
「フリード、毎日足を洗いなさいね!あなたの足は…もう、ほんとに…」
ヴェゼルはすぐに気を取り直し、次の計画を考える。
「次は、大豆で味噌か醤油を作りたいなぁ。でも、この世界に米はあるのかな?」
オデッセイが首をかしげて、「どうしたの、ヴェゼル?」と聞く。
ヴェゼルは真剣な顔で説明する。
「新しい調味料を作りたいんです。でも、パンには合わないかもしれない…。作りたい調味料はきっと美味しいと思うんですけど……」
ふと、ヴェゼルはオデッセイに相談する。
「それで…話は変わるんですが、他の美味しい料理のために、牛を飼うか、牧畜の経験のある人を雇うのも手かなと思っていて。牛の乳は飲んだり加工して使えるので、定期的に手に入るようにしたいんです。そうすると美味しいお菓子の種類がもっと増えると思うんですが」
サクラやヴァリーやアクティの目が輝く。
オデッセイは首をかしげる。
「この世界では、少なくとも帝国には牛の乳を飲むなんてことはないと思うわよ。」
フリードは無意識にオデッセイの胸を凝視している。オデッセイはそれに気づき、フリードに鋭い目を向ける。
「どこを見てるのよ、フリード!」
フリードは慌てて目をそらし、笑ってごまかす。
「ははは…いや、牛の乳の話だよな…」
ヴェゼルは少し考えて、「山羊なら代用できるかもしれません。癖はあるけど。」
オデッセイは即座に答える。
「山羊は無理ね。羊ならすぐに手に入るわよ。」
ヴェゼルは目を輝かせる。
「確か、羊の乳もチーズなどにできるはず…飲めるのかな? お願いします、お母さん、羊を手配してほしいです!」
フリードを見るとついつい、オデッセイの胸に視線が移ってしまう。オデッセイは鋭く睨む。フリードは小さく息を呑む。
その日の夜、みんなで夕食を囲んだ。
ネバネバ事件の後片付けを経て、厨房はすっかりきれいになったが、誰もがまだ心のどこかで糸を引くあの感触を思い出していた。
ヴェゼルは、納豆騒動の反省を半分だけして、半分は次の発明に思いを馳せていた。
フリードは妙にそわそわしている。時折オデッセイの胸元に目線を向けそうになり、慌てて視線をそらす。オデッセイはそんな彼の様子に気づき、片眉を上げる。
「フリード、どうしたの?箸が止まっているけど…目が泳いでるわよ?」
フリードは慌てて頭をかき、笑ってごまかす。
そして、夕食が終わり、みんなが団欒を終えると、フリードはそわそわと立ち上がり、オデッセイの手を引いて寝室へと消えていった。
ヴェゼルはそれを見届け、思わず小さく呟く。
「……おさかんですな」
隣を見ると、ヴァリーが熱い視線をヴェゼルに向けている。少し赤面しながら、低めの声で問いかけた。
「ヴェゼル様も……飲みますか?」
ヴェゼルはその言葉にさらに赤くなり、頭の上のサクラも、興味津々に首をかしげながら同意するかのように言った。
「こっちもおさかんね」
小さく苦笑いを浮かべつつ、ヴェゼルは両手で顔を押さえ、赤面を隠すが、サクラは無邪気に頭で揺れながら、「こっちもおさかんね」と繰り返す。
その様子を見て、ヴァリーはさらに真剣な目でヴェゼルを見つめ、少し息を詰めながらも、もじもじと尋ねる。
「ヴェゼル様…本当に、飲みますか…?」
ヴェゼルは完全に混乱し、頭のサクラを見上げる。サクラは無邪気に跳ねているだけなのに、なぜか状況はさらに熱く、微妙に緊張感の漂う空気になっていた。
結局ヴェゼルは、頭を抱えつつ、赤面のまま小声で答える。
「…いや、飲まないってば…」
しかしサクラとヴァリーの熱い視線によって、周囲の空気は完全に「おさかん」状態で締めくくられ、夜はひそかにドタバタのまま幕を閉じたのだった。




