第171話 トランザルプ神聖教国
ビック領から不帰の森を越えた先に広がるのは、トランザルプ神聖教国であった。
数百年前、もとはアトミカ教の一派閥にすぎなかったが、やがて分離独立し、自らを「神聖教」と称して国を築いたのである。アトミカ教は今も国を持たぬ放浪の信仰であったが、トランザルプ神聖教はその対極、強固な制度と聖職者の秩序を持ち、聖魔法に長けた者たちを抱える国へと成長していた。
教国の奥深い聖堂の奥の間は、外界の喧噪をかき消すように重厚な空気が満ちていた。赤絨毯に沿って並ぶ聖像の影が、壁面に長く伸びる。
蝋燭の炎は揺らぎ、低く流れる祈祷の歌が遠くで反響する中、総主教であり国主でもあるスピアーノは大理石の長机に肘をつき、書き付けられた報告書を無造作に床に放った。額には皺が寄り、その瞳はいつになく険しかった。
側にはいつもの副官たちとは別に、息子のエスパーダ主教が控えている。
エスパーダは大柄で整った容貌をしているが、総主教のような老練な威厳ではなく、若々しい気迫を纏っていた。彼は父の苛立ちをさりげなくたしなめるように、小さく息を吐いた。
「報告を続けよ」
スピアーノは低い声で命じる。だがその低さは命令ではなく、むしろ沈着な尋問に近かった。
密偵は額に汗を滲ませ、膝を折って敬礼するように頭を下げた。その顔は長い潜入任務で焼けただれ、目は落ち着かない。手の指先で小さな革の巻物――これが彼の報告書である――をぎゅっと押さえつけながら、口を開く。
「はっ、総主教様。ビック領、特にホーネット村周辺の状況を確認致しました。まず噂の件からでございます――」
密偵の声は震え、慎重に言葉を選ぶ。彼は聖国の権威に従順であるがゆえに、何を隠すべきかを熟知していた。情報には火種が混じる。誤った読みは大火となる。
「ホーネット村には、確かに『妖精』の噂が広まっております。領民の子どもたちの戯言と思われるかもしれませんが、複数の聞き取りで一致しておりました。曰く――『領主の嫡男ヴェゼルの周りをいつも飛んでいる』。それだけではありません。『私はヴェゼルの婚約者よ』と公言するなど、妙に人前慣れしているとのこと。加えて、食いしん坊であると――その、…………食に目がないという評判でございます」
報告を聞きながら、エスパーダは一瞬吹き出しそうになった。総主教の息子とも言うべき人物が、妖の生物の恋愛沙汰で眉を顰めるという図は滑稽だ。しかし彼はすぐに表情を引き締める。滑稽さの陰にこそ、侮れぬ要素が潜む。
「ふむ……妖精が婚約者を名乗るか。随分と図々しい妖精だな、だが、もう少しまともな噂を拾ってきてはどうだ?」
スピアーノは失笑を含めて吐き捨てたが、その声は冷たく、笑いの行間に疑念が滲んだ。
「しかし、噂だけで片付けてよいものではない。貴様は他に何を聞いた?」
密偵は一呼吸置いて、さらに核心へと進んだ。
「ここ数年、ビック領の発展が尋常でありません。知育玩具に始まり、ホーネットシロップ、ホーネット酒、白磁、そして最近では『そろばん』という計算器具が宮中に献上されたという情報もあります。さらに、庶民の間で『ウマイモ』という作物が爆発的に普及し、魔物の部位の燻製肉の食材も領外に評判となっております。交易の動きも活発で、外部の港村と定期的に連携を始めているようです」
エスパーダが静かに眉を寄せる。彼はこの種の「経済の活況」が持つ政治的意味合いを少なからず理解していた。
アトミカ教は長らく物流と人心の掌握を重視してきた。トランザルプはそこまで物流を重視していなかったが。
もし辺境の小領が独自の隆盛を示し、民衆の支持を集めれば、教会の影響力に変化をもたらしかねない。
スピアーノは苛立ち、さらに問い詰める。
「つまり、単なる風変わりな仕掛けではない。領内に新たな産業基盤と民心を得る動きだと――」
スピアーノの声に、暗い興味が混じった。
「そこに妖精が絡むとなれば、単なる玩具や食品の話では済まぬ。『収納』や『転移』の噂はないのか?」
密偵はしばし言い淀んだ後、思い出したように口を開いた。
「はっ……そういえば、嫡男ヴェゼルは五歳の鑑定の儀にて収納魔法を授かったそうです。しかし、その容量が――りんご一個分ほどしか入らぬほど小さなものでした。そのため、本来なら収納魔法使いは例外なくアトミカ教に取り込まれるものですが、彼は『役立たず』『ハズレ魔法使い』として放置されているようで……」
スピアーノは呆れたように吐き捨てる。
「りんご一個分だと? そんなものは魔法と呼べぬ。塵同然だ」
だがエスパーダは興味深そうに目を細めた。
「収納魔法を持ちながら教会に取り込まれていない……ですか。これはなかなか面白い。逆に利用価値が潜んでいるかもしれません」
スピアーノは「くだらん」と再び一蹴するが、エスパーダは口元にわずかな笑みを浮かべた。
密偵は首を振る。「現状で収納魔法に関する明確な証拠は掴めておりません。ただし、そろばんや新産業の台頭は、流通や計算能力の強化を示唆しており、長期的には税収構造や行政効率に影響を与え得ます。教会としては留意するに値する動きです」
スピアーノは掌を机に叩いた。蝋燭の炎が一瞬跳ね、壁の影が踊る。彼の顔に、総主教としての決意が現れる。
「よい。もっと深く調べよ。密偵の数を増やせ。表面の噂以上に、伝播経路、商品の流れ、外部との連絡先――すべて洗い直すのだ。どんな小さな繋がりも見逃すな」
エスパーダが即座に手を挙げた。
「私が行きます。私自ら現地を視察し、必要ならば友好的に接触して、情報を収集します」
その発言に場内は一瞬の静寂に包まれた。総主教は息子の申し出をじっと見据えた。エスパーダは血気に逸る若僧ではなく、冷静な判断を下すことのできる人物だとスピアーノは知っている。だが、教国の権威と外交は慎重さを要する。
「クルセイダー軍のガーラを連れて行け」
エスパーダは一瞬顔を歪めたが、ゆっくりと頷く。
そこで後ろに控えるガーラを総主教が呼ぶ。
「クルセイダー軍、ガーラ!」
「はっ!」
そこで、エスパーダはガーラに言う。
「ガーラ、注意してください。今回は『調査』です。武をもって脅かすのではない。教国の名を前面に出して恫喝するようなことはしないでください。柔らかく、しかし確実に情報を掴むのです。もし敵対が見えれば即座に撤収し、報告するのです」
ガーラはつまらなそうに「承知しました」と答える。
ガーラの表情にはエスパーダへの侮りが宿っていた。なぜ、騎士爵風情に教国が下手に出なければいけないのかと。――どんな小さな変化でも、単に宗教上の問題だけではなく、国家の均衡を崩す可能性がある。そんなことは、ガーラには分かるはずもなかった。
スピアーノはさらに命令を重ねる。「密偵の報酬を倍にし、潜入地点を増やせ。加えて、トランザルプ側の教会網も動員せよ」
密偵は震える手で再度頭を下げ、退室の準備を始める。エスパーダは立ち上がり、静かにその場を離れようとしたが、父のスピアーノが彼を呼び止めた。
「気を付けよ、息子よ。民を守ることと、教国を守ることは時に相反する。しかし我らは全体の均衡を保つために存在する。慎重に、だが堂々と」
エスパーダは一瞬だけ微笑んだ。それは父への信頼と、自らの責務を受け入れる意思の表れだった。
密偵が部屋を出ると、蜃気楼のように静寂が戻る。だが、空気は以前より重く、遠くで風が何かを運んでいるように感じられた。
トランザルプ神聖教国の見張りが、辺境の小さな革新の芽をどう扱うのか――それは今後の情勢に小さくも確かな波紋を投げかけるに違いなかった。




