閑話 闇の妖精
はじめに、世界は無であった。
形なく、光なく、声もなく、ただ虚ろなる空に、ひとつの『意思』があった。
そして、その傍らに、ひとつの精霊があった。
それは闇の精霊、終わりなき影にして、時をも持たぬ存在であった。
この世はまだ何もなかった。
水もなく、大地もなく、星もなく、ただ無の海が広がるのみであった。
闇の精霊は『意思』の傍らにあって、沈黙のなかに在った。
その沈黙は幾千年に及び、昼も夜もなく、始まりも終わりもなく、ただ在ることのみが在った。
されど、ある時、『意思』は思いを抱いた。
それは、魔法ある世界を創らんという思いであった。
『意思』は虚ろを裂き、魔素を満たし、流れを与え、風を立たせ、火を息吹かせ、土を築き、海を湧かせた。
世界はかくして初めてその姿を現し、魔法の理を帯びた。
闇の精霊は、その新しき世界を見た。
はじめての大地、はじめての空、はじめての星々、はじめての命。
闇の精霊はその光景に興味を抱き、心を震わせた。
どれほどの時が過ぎたか、誰も知らぬ。
それは数年かもしれず、数百年かもしれず、数千年かもしれなかった。
ただ、闇の精霊は見続けた。
そして、『意思』はまた創造した。
人間を。
彼らは弱く、愚かで、ときに残酷であった。
されど、彼らは相反するものを胸に抱いた。
憎みながら愛し、壊しながら育み、失いながら祈った。
闇の精霊は、その在り様に心を奪われた。
その愚かしさに、そして同じほどの愛しさに。
闇の精霊は、ひとつの決意をした。
自らが生み出した光の精霊を伴い、人の世へ降り立つことを。
それは永き時の果てにおいて初めてのこと。
闇の精霊は世界へと降り、地に触れ、風に触れ、人々に近づいた。
だが、『意思』はこれを見て激怒した。
その座を離れ、地に降りたることは、理を乱すものとされた。
『意思』は闇の精霊に罰を下した。
高き位を奪い、その名を落とし、闇の妖精へと変じさせた。
されど、『意思』は闇を全く見捨てはしなかった。
その者は悠久の時を越え、創世より在った精霊であったゆえ、ただ罰するのみではなかった。
『意思』は闇の妖精に名を与えた。
それは『桜』と呼ばれた。
その名は孤独の闇夜に咲く花の名、春を告げる花の名、ひとときに散りゆく花の名であった。
桜はその時、光の精霊と別れた。
ただひとり、残された。
桜は待ち続けた。
何百年、何千年の歳月を、ただひとりで。
風が吹いても、海が荒れても、星々が巡っても、桜は待ち続けた。
やがて、ある日、桜は気づいた。
懐かしく、愛おしいものが、遠くに在ることを。
それはかつての記憶、かつての光、かつての約束。
桜は誘われるように近づき、その気配に触れた。
そこにあったのは、あの悠久の時を過ごした空間、
恨めしくも、愛おしくもあった場所。
桜は悟った。
やっと出会えたのだ、と。
私の愛しい人に、と。
桜は何も考えず、その空間へと飛び込んだ。
かつての光の精霊であったのか、それとも新たなる出会いであったのか、それはわからなかった。
ただ、胸の内にはひとつの祈りがあった。
――もう一人はいやだ。
――ずっと、あなたといたい。
――もう離れない。
桜は目を閉じた。
長き孤独の果て、再び誰かとともにあることを夢見て、
新たな出会いを抱いて、そっと、静かに、目を閉じた。
かくして語られる。
『闇の精霊の堕ちしこと、桜と名づけられし、
長き孤独の果てに、愛しきものへと帰りし』
その物語は、風に乗り、海に伝わり、星々の間に響き、今に至るまで消えず。
人はその言葉を「闇の章」と呼び、祈りとともに唱え続けるのである。




