第167話 ようやく、パンツくった 01
その日の午後、ようやくパン生地をこねる段階に入った。
石窯完成からここまで、思った以上に長かった。
「ふう……ようやく、だな」
ヴェゼルが汗を拭うと、横でヴァリーが小さく頷く。
本当はバターや牛乳を入れたかったが、この村では乳製品は前もって言っておかないと手に入らない贅沢品だ。
牛はいるが、貴重な乳は子牛と領主の食卓にまわされる。
というわけで、今回はシンプルに小麦粉、塩、ホーネットシロップ、そして発酵させた野苺酵母と卵を使うことになった。
野苺の瓶を取り出すと、中ではプチプチと小さな泡が立ちのぼっている。
鑑定のスキルを使ってみれば――「酵母菌」とはっきり表示が出た。ほんのりアルコールの香りまで漂ってきて、思わずヴェゼルは顔をほころばせる。
「……よし、これならいける」
「じゃあ、まぜよう!」とアクティが手を叩き、わくわく顔。
「はいっ!」とセリカも元気よく返事する。
作業開始。
大きな木鉢に小麦粉を入れ、塩をパラリ。そこに甘みの代わりにホーネットシロップをとろりと落とす。最後に野苺酵母を加えると、ほんのり甘酸っぱい香りがふわっと広がった。
「……なにこれ、ちょっとワインみたいな匂いがする!」
「発酵って、不思議ですね」
ヴァリーが目を細める。
「よーし、いっちょやるか!」
アクティが腕をまくり、生地をこね始めた。
ところが――。
「ぬちょっ……! てに、くっつくっ……!」
最初から悪戦苦闘である。
「アクティ! 捏ねるじゃなくて叩きつけるようにするんだ!」
「たたくの!?」
「そう! こうやって腰を入れて、――ぺちん!」
アクティがヴェゼルの真似をして体より大きい生地を必死で持ち上げ、台に叩きつけた。
……が、そのまま生地に引っ張られて転倒。
「うぎゃーっ!」
「アクティ!?」
セリカが慌てて支え、二人まとめて床に転がる。
「だ、大丈夫ですか!?」
「だ、だいじょうぶ……!」
顔面が真っ白になったアクティは、むしろ満足げに笑っていた。
ヴェゼルは苦笑しつつも再び生地に挑む。
途中から交代制にし、全員で変わりばんこにこねることにした。
セリカは丁寧に、ヴァリーは力強く、アクティはなぜか楽しそうに歌いながら。
「こーねこね♪ ふわふわ♪ おいしいぱーん♪」
「……妙な呪文を唱えてますね」
「パンの神様に祈ってるの!」
「へぇ、パンの神様ですか……」
ヴァリーが肩をすくめた。
やがて生地はだんだん艶を帯び、まとまりを見せ始めた。
「ここで卵だな」
ヴェゼルとヴァリーが黄身と白身を分け、メレンゲを作る。
「えいっ、えいっ……あ、なかなか泡立たないな」
「もっと空気を入れて、こう、手首を使うのです」
「腕が……取れそう……!」
白身を泡立てるのは思った以上に大変だった。
結局、何人かで交代しながらシャカシャカ泡立てて、ようやくフワッとしたメレンゲが完成する。
「すごい……! 真っ白い雲みたい!」
サクラがふわりと飛び降り、指でちょんとつつく。
「きゃーっ、冷たい! でも美味しそう〜」
ヴェゼルはそのメレンゲを生地に混ぜ込み、さらにこねる。
粘りが出てきたところで、ようやく発酵させる準備完了。
「よし、水で濡らした布で覆って……」
「どこに置くんですか?」
「厨房のかまどの裏だね。あそこは火が入ってるからあったかいと思う」
みんなで生地を運び、布をかぶせる。
その瞬間、なぜかアクティが小声で呟いた。
「がんばっておおきくふくらんでね……」
「アクティ、まるで子供におまじないしてるみたいだな」
「だって、これからそだつんでしょ? かわいいじゃない!」
――そうして、一日目の作業は終了した。
夜の厨房。
火のぬくもりに包まれたかまどの裏で、生地は静かに眠りについた。
翌朝。
「……でっかくなってるーーーっ!」
アクティが早起きしての厨房に行ったようだ。
布をめくれば、昨日の倍以上に膨らんだパン生地が鎮座している。
「ほんとに膨らむんですね……!」セリカが目を丸くする。
「これが発酵か……! すごいですね」ヴァリーも感嘆の息を漏らす。
ヴェゼルはそっと匂いを嗅ぎ――懐かしい香りに目を細めた。
「……イーストの匂いだ」
みんなも代わる代わる嗅いでみる。
「なんか変な匂い! でもおいしそう!」
「ほんと……パン屋さんってこんな匂いがするのかな」
「わくわくしますね」
その後、生地を切り分けて丸め直し、さらに二時間寝かせることに。
待つ間、火を入れたばかりの石窯の前で、みんなわくわく顔で座り込む。
「ふわふわパンって……たいへんなんだね」
アクティがしみじみ呟くと、全員が無言で頷いた。
「でも、きっと美味しいよ」
ヴェゼルは火を見つめながら、胸の奥で小さく誓った。




