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第161話 アビー -take the road-

翌朝。


まだ朝靄の残る石畳の中庭に、馬車が待っていた。両脇には護衛騎士、車輪は前夜の雨を吸った土を踏みしめ、低く軋む音を立てている。


城門の向こうに続く道は遠く、薄曇りの空が旅の長さを思わせた。


ヴェゼルの前に立つアビーは、両腕で壺を大事そうに抱えていた。


壺の中には、昨日の夕暮れに一緒に摘んだ野苺がぎっしり詰まっている。蓋の隙間から甘酸っぱい香りが漂い、朝の冷たい空気をわずかに和らげていた。


「アビー、その壺は振らないようにね。中で泡が立ち始めたら、もう酵母が生きている証拠だから」


そう告げながら、ヴェゼルは小さな羊皮紙を手渡した。そこには丁寧な筆跡で「酵母の扱い方」と「ふわふわパンの作り方」が書かれている。


アビーは壺と紙を交互に見つめ、ぱっと顔をほころばせた。


「ありがとう! これで、お城でもパンを焼いてみるわ。うまくできるかな」


「最初は難しいかもしれないよ。でも失敗しても諦めないでね。酵母は気まぐれだけど、根気よく付き合えば必ず応えてくれるから」


ヴェゼルは微笑みながらそう答えた。


少しの沈黙のあと、ヴェゼルは声を落とす。


「……この間の聖魔法の話、結局アビーに全部を教えられなかったこと、ごめんね」


アビーは壺を抱えたまま、首を横に振った。


「いいの。知識はいつだって、受け取る側の準備が必要なんだと思う。だから謝らないで」


その言葉にヴェゼルは胸をなでおろした。彼女の笑顔は、不安を払う朝日よりも眩しかった。


――そして出立のときが来た。


御者が手綱を鳴らすと、馬たちは鼻を鳴らし、曇天の下で蹄を踏み鳴らす。


バーグマンは最後に振り返り、「世話になった」と笑顔で告げた。オースターは深々と頭を下げ、アビーは何度も手を振りながら馬車へと乗り込む。


やがて馬車の扉が閉じられ、重い音が中庭に響いた。


車輪がゆっくりと回り始め、石畳を抜けて城門へと進んでいく。ヴェゼルたちの姿は少しずつ遠ざかり、やがて霧の向こうに消えていった。


馬車の中は、最初こそ苺の甘酸っぱい香りと、先ほどまでの名残惜しさで包まれていた。しかし時間が経つにつれ、空気は重たく沈んでいく。




最初に口を開いたのは、バーグマンだった。窓の外に流れる風景を見つめたまま、低くつぶやく。


「あの婿殿の『知識』……詳細を聞かなくて正解だったのかもしれん」


アビーとオースターは一瞬きょとんとしたが、すぐに彼の真意を悟った。


「世の中には、知らぬ方が幸せなことがある。『あれ』こそがそうだろう」


彼の声音は淡々としていたが、眼差しには深い影が宿っていた。


「知識を持てば、人は必ず使いたくなる。善意であれ、欲であれな。だが、あの知識は……トランザルプ神聖教国が禁忌として封じているものなのではないか。もし漏れれば、教国は間違いなく動く。それ以外にも権力者なら、誰もがあの知識を欲するだろう」


アビーは小さく身をすくめ、壺を胸に抱き寄せた。


「動くって……まさか、ヴェゼルを狙うってこと?」


「それだけでは済まん」バーグマンは苦い表情で答える。


「魔法を取得していたら、間違いなくアビーを直接捕らえようとするかもしれんし、あるいは周囲を人質に取る。弟妹を攫って揺さぶることもありえる。彼らは手段を選ばぬ。ましてや、あの魔法が本当に病を治すとなれば……世界の均衡が崩れる。教国はその芽を摘み取ろうとするだろう」


オースターは青ざめた顔で黙り込み、アビーは壺を抱えたまま視線を落とした。


昨日まで夢のように甘い時間を過ごしていた少女の胸に、現実の冷たさが突き刺さる。


「確かに……」オースターが口を開いた。


「聖魔法で病を治せる者が現れれば、人々はこぞってその力を求めるでしょう。高位貴族や錬金塔の連中なら、どんな手でも使うはずです。誘拐も、拷問も、手段の一つにすぎない……」


彼の言葉にアビーは震えた。だがバーグマンは首を横に振り、静かに言い聞かせるように続けた。


「だからこそ、オデッセイ殿がすぐに緘口令を敷いたのは正しかった。あの知識は、今の我々には重すぎる。善悪の判断すら曖昧な若造どもが、抱えきれるものではない」


アビーは唇を噛んだ。


「でも……ヴェゼルは、それをアタシのために話してくれたのよ。あの時の顔……すごく真剣で、優しかった。なのに、そのせいで彼に危険が迫るかもしれないなんて……」


バーグマンは一瞬だけ目を細め、やがて短く頷いた。


「分かっている。だが心配するな。あの顔ぶれなら、むやみに口を滑らせる者はいない。逆に我らが注意せねばならん。軽々しく話せば、それこそ婿殿やビック領に迷惑をかける」


彼の声は鋼のように固く、命令にも似ていた。


「だから――あのことは今日この時をもって忘れろ。記憶に留めるな」


その言葉にアビーはうつむき、そっと壺を撫でた。忘れることなどできるはずもないが、それでも頷くしかなかった。


一方、オースターは黙り込んだまま、窓の外の風景をぼんやりと見ていた。頭の中には一つの考えが浮かび上がっていた。


――ヴェゼルは、なぜあの知識を持っているのか。


トランザルプ神聖教国の奥深くで秘匿されているはずの禁忌を、彼はどうして知っているのか。書物か? 師か? それとも……。


思考の先に、一つの答えが見えかけた瞬間、オースターの額に冷や汗がにじんだ。


「……いや、まさか」


あまりに現実離れした推測。


十代にもならぬの若者が抱くには重すぎる解答。


彼は慌てて頭を振り、その考えを打ち消した。だが胸の奥で小さな棘のように残り、消え去ることはなかった。


馬車の中は再び沈黙に包まれた。アビーは野苺の壺を抱きしめ、バーグマンは険しい顔で瞼を閉じ、オースターはただ無言で己の思考と戦っていた。


その沈黙の中、車輪の軋む音だけが、遠ざかる城から彼らを運び続けていた。





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