第160話 聖魔法と病気治療
その夜――。
一日の喧噪がようやく落ち着き、館の灯火も次第に消えていく頃。
ヴェゼルは侍女に導かれ、扉の前に立たされた。扉の向こうは、オデッセイの私室。呼び出しを受けたのは初めてではないが、今夜はいつも以上に重苦しい気配が漂っていた。
「どうぞ、入って」
扉を開けると、そこにはすでにオデッセイが机に向かっていた。
机上には蝋燭が数本灯され、淡い光が彼女の険しい顔を照らしている。その横にはフリードの姿もあったが、オデッセイは振り返り、低い声で言った。
「フリード。今夜は席を外してね」
フリードは一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷き、静かに部屋を出て行った。
扉が閉じられると同時に、部屋には二人だけが残される。外からの物音も遮断され、異様なほどの静けさが広間を包み込んだ。
ヴェゼルは椅子に腰を下ろし、オデッセイの視線を正面から受け止める。
「明日、あなたがアビーに聖魔法の講義をすると聞いたの。だからね、……単刀直入に聞くわ」
オデッセイの声は低く、しかし硬く研ぎ澄まされていた。
「先日、聖魔法の鍛錬をしていた時、あなたは答えたわね――『聖魔法で病気を治せるだろう』と。その言葉の意味を、今ここではっきり聞かせてちょうだい」
一瞬、蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁に踊る。
ヴェゼルは深く息を吸い込み口を開いた。彼は卓上の羊皮紙を手に取り、ペンを走らせながら言葉を続けた。
「人間の体は、血が巡り、骨が支え、筋肉が動かしています。そして――病の正体は、目に見えぬほど小さな生き物……『細菌』というものです。これが体に入り込むことで、人は熱を出し、咳をし、あるいは命を落とす。もし聖魔法使いが体の仕組みを理解し、この病の素を見抜くことができるなら……細菌を取り除く、あるいは体に巣くう悪い瘤や腫れを消す。そうすれば、これまで治せなかった多くの病気を治療できるはずです」
オデッセイの眉がぴくりと動いた。
彼女の瞳は鋭さを増し、蝋燭の炎に照らされていっそう深い影を帯びる。
「……つまり。修練を積めば、聖魔法で病気そのものを治すことが可能だと、そう言いうのですね?」
「断言はできません。が、理屈としては多分可能です。知識を持つ者に教えれば、必ず道は拓けると思います」
オデッセイはしばし沈黙した。
指先で机を軽く叩きながら、思考の底へと沈んでいく。やがて彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「……ヴェゼル、あなたはそれがどれほど危ういことを口にしているか、理解しているのですか?」
ヴェゼルはまばたきをし、言葉を失った。
オデッセイの声には、ただの叱責ではない、重苦しい現実がにじんでいた。
「あなたも耳にしたことがあるはずです。アトミカ教から分派し、建国した――トランザルプ神聖教国のことを」
ヴェゼルは小さく頷く。
「……はい。表向きは神の教えを守る国だと」
「そうです。しかし、あくまでも噂ではありますが――あの国は病をも癒す聖魔法の存在が噂されていると」
オデッセイの声が低く響く。
「ごく一部の者にしか知られていない噂です。高位貴族や、錬金塔に出入りする一握りの者だけ。でも確かに、病を治す力を持つ聖魔法使いが存在する、という話は昔から絶えずあるのです」
ヴェゼルは目を見開いた。自分が考えた理論が、すでにどこかで現実となっているかもしれない――その事実が、心をざわつかせた。
「……では、やはり可能なのですね」
「可能か否かではないのです」オデッセイは厳しい目を向けた。
「問題は、その知識と力が徹底的に秘匿されているということです。何者も外に漏らさず、噂にすらしない。それほどまでに――世界の均衡を崩しかねない力だと思われているからなのです」
蝋燭の火が揺れ、室内に長い影が落ちる。
オデッセイの声はさらに低く、重みを増して続いた。
「もし……あなたがその秘密に触れていると知られたらどうなるか。間違いなく、トランザルプ神聖教国は黙ってはいません」
彼女は一瞬言葉を切り、視線を鋭くした。
「それだけにとどまらず、最悪の場合――あなた自身の命を奪おうとするか、あるいは……」
その先の言葉を、ヴェゼルは息を呑みながら待つ。
「……あなたの周囲の者を人質に取り、秘密を吐かせようとする可能性もあり得ます」
静寂の中、オデッセイの声は鋭く突き刺さった。
「普通は弱い者から狙います。例えば、アクティを攫って対価とする。もしくは、私を攫い拷問にかける。あるいはアビーを狙うことも、決してあり得ぬ話ではありません」
ヴェゼルの心臓がぎゅっと縮む。
頭の中に、アクティの声とアビーの恐怖に染まった顔がよぎった。
「……そんな……」
「それほどの知識・情報だということです」
オデッセイは厳しい眼差しを崩さない。
「病を治す。それは人々の望みでもあり、権力者達、王や貴族、商人たちにとっても莫大な価値を持ちます。金よりも、土地よりも、命に関わる力を求めぬ者はいない。あなたの言葉一つが、領を、家族を、そして国を揺るがす可能性があるのです。だからこそ――軽々しく口にしてはなりません」
ヴェゼルは強く唇を噛み、拳を握り締めた。
自分が放った一言が、どれほどの重みを持つか――考えも及ばなかった。
「……すでに、皆にちょっとですが話してしまいました。聖魔法で病が治せるかもしれない、と」
オデッセイは深く息を吐き、首を振った。
「分かっています。あの場には私もいましたし。あの後すぐにあそこにいた者たちは皆、口外無用と誓いました。だからすぐに広がることはないでしょう。でも、それでも危険なのです。あなた自身が一番、肝に銘じねばなりません」
蝋燭の火が小さく揺れ、二人の影が壁に寄り添う。
重苦しい沈黙の中、ヴェゼルはゆっくりと顔を上げた。
「……お母さん。自分は……どうすべきなのでしょうか」
「簡単なことです」
オデッセイの答えは即座だった。
「アビーのことを、皆のことを本当に大切に思うならば――今は絶対に口外しない。それが唯一の道です」
ヴェゼルの胸に、鋭い痛みが走る。
だが同時に、その言葉が何よりも正しいと理解していた。
「……はい」
小さく、しかし確かな声で頷く。
オデッセイはヴェゼルをそっと抱きしめた。
「厳しいことを言ったけれど、一番心配なのはあなたなのよ。知識を無闇に広めないことも、アビーを思っての発言だったことも分かってる。でもね……やっぱり母として、あなたが心配なの」
自分の知識が救いとなる日を夢見ていた。だがその知識は、同時に大切な者を危険に晒す刃でもある。
――もっと慎重に。もっと深く考えなければ。
その夜、ヴェゼルは一人布団に横たわりながら、何度も自分に言い聞かせた。
静寂の中、アビーの笑顔とアクティの声が、何よりの誓いとなって胸に刻まれていった。




