第155話 そしてかえるか
翌朝、一行は前日に仕込んでおいたタコとイカの一夜干しを、宝物でも扱うように馬車へ丁寧に詰め込んだ。
誰もが名残惜しい気持ちを抱えつつも、今日はビック領へ帰る日である。
アクティとスイフトは互いに名残惜しそうに見つめ合い、また会う約束を交わして笑顔を交わした。
もっとも、二人はその場で小声でコソコソ話をしており、他の大人には内容は聞こえなかった。
ただ、最後にスイフトが青い顔でコクコクと頷いていたのだけは誰の目にも明らかだった。
「一体何を吹き込まれたんだ?」と皆が内心つっこまずにはいられなかった。
ローグ子爵とアルト夫人は改めて一行に深く礼を述べ、「今後ともよろしく」と言葉を贈った。
その後、アルト夫人はアクティを抱きしめ、「また遊びにいらしてね」と優しく語りかける。
アクティは満面の笑みで頷いた。どうやらアルト夫人は、すっかりアクティを気に入ったらしい。
馬車が静かに発進し、潮風が窓を撫でる。
去っていく背を見送りながら、ローグ子爵はしみじみと呟いた。
「もっと早くにビック家と深く交流していれば……父のスタンザも、クリッパーも、別の道を歩めたかもしれんな」
隣のアルト夫人も真剣な表情で頷く。
「それにしても、ヴェゼルさんは恐ろしい子です。あの歳であの落ち着きと知識を兼ね備えている。くれぐれもあの方を敵に回してはいけませんよ。この地域、いえ、きっと帝国そのものがこれから彼を中心に動いていくような気がします」
アルト夫人がそう告げた。子爵は深く頷くのみであった。
ふと空気を和ませるようにアルト夫人が笑みを浮かべた。
「それにしてもスイフトは、アクティちゃんにゾッコンのようね」
冗談めかして言う。子爵もつい「親子揃って、表向きはおとなしいが、怒ると怖い女性が好きなのかもしれん」と笑い返した。
だがその直後、夫人から冷ややかな視線が突き刺さり、子爵は慌てて「じょ、冗談だ!」とゴマをすり始める羽目になった。
さらに夫人が「じゃあ、そろそろスイフトにも弟か妹が必要では?」と爆弾を投げると、子爵は見事に石像のような無表情になったという。
──馬車の旅は続く。
途中、またあのルータン村に立ち寄ろうかと一行は考えたが、今行けば村人たちに余計な接待を強いるかもしれないと判断し、次回たっぷりの土産を持参することで決着した。
もしかすると、先にルークスがルータン村に顔を出すことになるかもしれない――そんな話題で場は和やかに盛り上がる。
道中では魔物にも出くわしたが、ヴァリーが涼しい顔で瞬時に討伐。
実際には相当な技量を要するはずなのに、彼女はまるで庭掃除でもするかのように落ち着いていたので、一行は逆に安心させられる。
戦いを終えた後は、いつものようにヴェゼルの隣に座り、自然に手を繋ぐのがヴァリーのお決まりであった。
ヴェゼルが「そんなに手を繋ぎたいの?」と尋ねると、彼女はにこりと笑って「本当はもっと肌と肌を合わせたいですが……あと六年は辛抱いたします」と答える。
ヴェゼルは内心、「僕は十三歳でいったい何を奪われるんだろう……」と顔を引きつらせるしかなかった。
一方でアクティとサクラは「ひまだー!」と騒ぎ、ヴェゼルは仕方なくしりとりやあやとりを教える羽目になった。
それでも横でヴァリーはにこにこしながら、しっかりとヴェゼルの手を離さない。
車輪の音とともに、そんな日常のような、非日常の旅が続いていく。
ヴェゼルは心の中で「アビーにしばらく会えていないから、手紙を書かないとな」と考えたり、将来のことを想像したりと、思索に耽っていた。
──五日後。無事にホーネット村へ到着すると、真っ先に駆け寄ってきたのはフリードとオデッセイであった。
アクティは大きく両手を広げ、誰もが「これはフリードに飛びつくな」と思った瞬間――するりと股の間を通り抜け、そのままオデッセイの前に行く。
そして「ただいまーっ!」と元気いっぱいに抱きついた。
フリードは両手を広げたまま凍りつき、「……え?」と声を漏らす。カムリも驚き、トレノは思わず「すげぇ!アクティ様!」と大盛り上がり。
完全にフリードはいわゆる「障害物」扱いである。
さらに悪いことに、アクティは無邪気?な笑顔で「おかーさんがいちばん!」と叫んでしまい、フリードの心はズタズタ。
思わずその場にしゃがみこみ、「俺は……通過点かよ……」とつぶやく姿は、館の人たちにとって最高に笑える瞬間であった。
見かねたヴェゼルが「お父さん、おかえりって言わないと」と助け舟を出すが、フリードは涙目で「お、おかえり……」と蚊の鳴くような声を搾り出すのが精一杯。
しかもタイミングが遅く、サクラに「今さら!?」と容赦なく突っ込まれる始末だった。
オデッセイはニコニコ顔で「娘は正直者ね」とちょっとご満悦。
フリードは「この母子……揃って俺を踏み台に……!」と天を仰いだ。
結局その日、フリードは陰でクスクスと笑いを届ける役を担うことになったのだった。
だが、フリードはまたもや?ミスを犯してしまう。
ふとフリードが視線をヴェゼルの肩に向けるとサクラが乗っていた。
しかし、いつものサクラと何かが違う。そして気づいた。
「サクラ、太った?」と尋ねてしまったのだ。
空気が凍った。
確かにサマーセット領での贅沢な魚介三昧により、サクラは食っちゃ寝生活で悠々自適な生活だった。
そして、ややふっくらした、いやほんの少し『ゆるふわ』になったのは事実。
だが、女性に体型のことを口にするのは最大のタブーである。
ヴェゼルやグロム達も気づいていながら、誰一人口には出さなかった。
それをよりによってフリードが、無邪気な顔で直撃させてしまったのである。
サクラは唇を噛み、いつものように反論することもなく、ただ肩を落として黙り込んだ。
その姿にフリードも「しまった!」と悟るが、時すでに遅し。
アクティが氷点下の視線を投げフリードを睨んでいる。
フリードは助けを求めるように妻のオデッセイを最後の頼みの綱とばかりに振り返ったが、母と娘、そろって同じ顔で「冷凍光線」をお見舞いされてしまうのだった。
それを見ていたヴェゼルは「さすが親子だな……」と感心した。
隣で穏やかに笑うヴァリーは「ヴェゼル様、何事も学びですよ」と、まるで師匠のような口ぶりで言った。
海の魚のお土産は珍しいご馳走として喜ばれ、村中にも配ったので皆が幸せそうな笑顔に包まれた。
少々のハプニングはあったものの、結果的には温かく、賑やかな帰郷の一日となったのであった。




