第152話 漁村トール村へ
朝食を終えた一行は、日の光に照らされた領館の庭を横切り、モンディアルの漁港へ向かう支度を整えていた。
朝の光はまだ柔らかく、海から吹く涼しい風が庭木の葉をさらさらと揺らしている。
ヴェゼルは顔を上げ、遠くに広がる青い海を眺めながら小さく息をついた。
「スイフトくんも行きたいんですか?」
ヴェゼルがローグ子爵に確認すると、子爵は椅子に座ったまま静かに答えた。
「構わん。だが、私も同行する」
思わぬ返事にヴェゼルは眉を寄せ、声をひそめる。
「え、でも……そのままだと領民や行商人に気付かれて、騒ぎになるんじゃ……?」
子爵は淡々と、しかし確かな自信をにじませて言った。
「変装していけば、誰にも気付かれまい。心配はいらん」
その軽い言い方にヴェゼルは「ほんとに大丈夫なのかな」と思いつつも、ひとまずうなずいた。
結局、スイフトには護衛が一人付き添うことになり、その後方にはグロム、さらに変装をしたローグ子爵が加わり、なるべく目立たぬよう歩くことになった。子爵の存在は秘密――騒ぎを避けるためだ。
やがて馬車が準備された。普段は荷物の運搬に使われる馬車に後座を敷き、ヴェゼル、ヴァリー、アクティ、スイフトがのんびりと並んで座る。
ヴェゼルの左手には木箱、隣にはいつものようにヴァリー。そしてポケットの中には、精霊のサクラが収まっている。ヴェゼルはそっとポケットに囁いた。
「サクラ、今日は浜まで行くから、海が見えるよ」
サクラはもぞもぞと動いただけで返事はない。どうやらまだ眠っているようだった。
馬車がゆっくりと動き出す。石畳の道は朝露でしっとりと濡れ、車輪の音が軽やかに響いていく。道の脇では領民たちが忙しなく家事をこなし、子どもたちが朝の光を浴びて駆け回っていた。
ヴァリーはその光景を眺めながら、ヴェゼルの手をぎゅっと握る。
「海風も気持ちいいですね……」
その声は小さかったが、嬉しさがにじんでいた。
アクティは馬車の縁から身を乗り出し、目を輝かせる。
「わあ、みなとにふねがいっぱい!」
「いつもふねがいっぱいなんだよ!」
スイフトくんも答える。
ヴェゼルは微笑み、アクティの肩に手を置いた。
「港は交易の要だから、ここから色んな荷が運ばれていくんだよ」
10分ほどの揺れののち、港の景色がはっきりと見えてきた。巨大な倉庫、網や樽を積み上げる作業場、行商人たちの声。
船乗りの掛け声が波間に響き、潮の匂いと混ざって生き生きとした空気を作り出している。
ヴェゼルは深く息を吸い込み、港の熱気を全身で味わった。
「すごいね!」アクティは目を丸くして見渡す。
「本当に……あの船、他領から来たんですか?」ヴァリーも指をさして尋ねる。
「そうだろうね。あの大きな帆船は遠方から荷を運んできているはずだよ」
やがて馬車は港を抜け、さらに15分ほど進んで漁村トール村へ到着した。
砂と潮の匂いが混じり合い、港町とは違った素朴で落ち着いた空気が漂っている。村長ドーンが笑顔で迎え、応接間に案内した。
「ようこそお越しくださいました」
「お世話になります。海藻について色々と教えていただきたいのです」
村長はにっこりと頷き、手を広げる。
「では浜までご案内しましょう。実際に見ていただくのが一番です」
アクティとスイフトは手を取り合って喜び、ヴァリーは相変わらずヴェゼルの手を握ったまま微笑む。
護衛たちは周囲を見張りつつ、海の匂いと波音に耳を澄ませていた。
馬車を降りると、アクティとスイフトは待ちきれずに砂浜へ駆け出し、砂を蹴り上げて遊び始める。
ヴェゼルはその姿を見て柔らかく笑みを浮かべた。後方では護衛やセリカ、グロムが安全を確認しながら歩き、子どもたちの近くには変装したローグ子爵もさりげなく付き添っていた。
砂浜では漁師たちが網を整理しており、ヴェゼルが声をかける。
「どんな魚が獲れたのか、見せていただけますか?」
網からは赤や銀に輝く魚、大ぶりのタコやイカが次々と取り出される。
「これは……」ヴェゼルが思わず声を漏らすと、漁師は笑って答えた。
「クラーケンの子どもだと言われててね。村じゃ誰も食べないんだよ。今日は嫌になるほど獲れてなぁ」
「でも、美味しそう……」
ヴェゼルがつぶやくと、漁師は肩をすくめて笑う。
「どうせ捨てるしかない。欲しけりゃ持っていきな」
ヴェゼルはにっこり笑い、荷を受け取ると海藻の場所へ向かった。村長は事前に採っておいた海藻を見せてくれる。
「これは昆布に似てるな。あっちはホンダワラに近い、これはテングサかな?」
村では「緑の海藻」「赤の海藻」「ふさふさの海藻」といった大雑把な呼び名しかなく、ヴェゼルは新たに名前をつけることを提案する。
「じゃあ、昆布、ホンダワラ、テングサでどうです?」
村長は目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「なるほど、それなら今後呼び名がついて便利ですな」
さらにヴェゼルは「海藻は干して乾燥させてから買いたい」と申し出ると、村長は「昔、解毒薬に使う海藻を売ったときもそうしていた」と快く応じた。
「ホンダワラを焼いて灰にすることもできますか?」
と尋ねると、村長は真剣な顔で「考えてみます」と答える。
タコとイカをどうするか問われたヴェゼルは即座に答えた。
「もちろん食べます!」
村長は驚きつつも興味津々の様子。ヴェゼルは目線を変装中のローグ子爵に向けてから提案した。
「明日、領館にいらっしゃれば調理してお見せしますよ」
「それは楽しみですな。ぜひ伺います!」
そのとき村長は、ヴェゼルの視線を追って後方にいたローグ子爵に気付き、慌てて挨拶しようとした。
だがローグは手を軽く振り、制した。
「お忍びだ。今は気付かぬふりをしてくれ」
村長は小さくうなずき、普段通りの笑顔に戻った。




