第16話 鑑定の儀 その後で -新人鑑定士オースター司祭の苦悩-
新人鑑定士のオースター司祭は壇上に立った瞬間から、喉が渇いていた。
老齢のキャブライト・ローレル司祭が体調を崩して控えに回ったとき、「代わりを頼む」と言われた。その言葉を受け入れた時点で、自分の運命が狂い始めていたのかもしれない。
鑑定は単純な作業に見える。対象に魔力を流し込み、反応を視覚化し、文言として読み上げる。ただ、それだけのこと。
長年の学識と経験がものを言う世界だが、原理そのものは単純だ。だからこそ、失敗は許されない。特に「鑑定の儀」の場では。
目の前に立ったのは、まだ五歳の少年。名をヴェゼル。騎士爵領の子息であり、父も武勇の誉れ高い辺境の雄で、将来有望と目される血筋の子。だが、その瞳の奥には、年齢不相応な落ち着きと影のようなものがあった。
彼に触れた瞬間、確かに見えたのだ。
それは、いままでの誰とも異なる光。明確な「魔法属性」ではなく、どこか形容しがたい、不定形の光。
資料に目を落とした時、そこには確かに記されていた。
――「収納スキル(りんご一個分)」
「スキル」。
この言葉に背筋が凍った。
これまで鑑定した記録の中で、スキルと呼ばれるものを見たことは一度もない。教会の学問所で学んだ資料にも、「スキル」という分類はなかった。
自分は教会に仕える身。
教会の公式見解では、人が扱う力はすべて「魔法」であり、その属性や性質に応じて区分される。そこに「スキル」という独自のカテゴリーを持ち込むことは、規範から外れる危険な行為だ。
だから、口が勝手に動いた。
「収納 魔法 …… りんご 一個分」
その瞬間、会場はざわめき、やがて笑いに包まれた。
小さな子供の鑑定としては異様すぎる結果。滑稽さを伴い、嘲笑が渦を巻いた。
だが、その裏で自分の胸は締めつけられていた。
(これは……本当に「魔法」と言ってしまって良かったのだろうか?)
その後にある言葉が降りてきた。「…境界」
そして呟く「境界?」
額から汗が伝う。視線は下に落とした。壇上を降りた小さな少年――ヴェゼルは、顔を引きつらせながらも必死に笑おうとしている。その隣でアビーという少女が励ますように声をかけていた。
それを見て、さらに罪悪感が募る。
本当は、あの少年は「特別な力」を授かっていたのではないか?
それを、自分が「魔法」として矮小化してしまったのではないか?
ここで脳裏に、昔、教会の先輩司祭から聞かされた禁忌の噂がよみがえる。
「いいか。お前はまだ若いから言っておくが……教会は二つの派閥に割れているのは知っているだろう」
アトミカ教 原理派。
初代教皇の定めた教義を絶対とし、人が扱う力は「魔法」であると統一して疑わない者たち。大多数を占め、教会の権威を守る勢力。
アトミカ教 改革派。
少数派で、陰で研究を続ける者たち。彼らは「魔法とは、実は本来スキルの一部にすぎない」と主張する。人間の可能性はもっと広く、魔法という枠は初代教皇が危険を恐れて“定義づけ”したものにすぎない。
その先輩は、さらに低い声で囁いた。
「魔法は定量だが、スキルは、成長する。レベルアップして進化する力だと伝えられている」
当時は笑い話と思って聞き流した。だが、いま目の前で見た光――あれはその名称のままに「スキル」と呼ぶにふさわしい異質さを帯びていた。
もし本当にそうなら、ヴェゼルの力が「スキル」なら、……歴史を揺るがす稀有な能力。
だが、自分はそれを「収納魔法」と言ってしまった。
観衆は笑った。嘲った。
本来「収納」魔法を授かった時点で、その子供は即教会所属となることが義務付けられている。そして、その収納魔法を授かった者には準騎士爵が与えられ、(一代爵位)両親にも莫大なお金が渡される。
(俺は……取り返しのつかないことをしたのかもしれない……)
手の中の書類が震える。もう一度見直しても、そこには「スキル」と記されている。だが、もう言葉は戻せない。場の空気も。
自分が「スキル」と口にしていたらどうなっただろう?
観衆は理解できず、混乱が広がり、教会に戻れば、自分は異端として責められたかもしれない。改革派の思想を吹き込まれたと糾弾され、教会から追放される可能性だってある。
それを恐れて――自分は安全な「魔法」という言葉に逃げた。
だが、その結果、目の前の少年の未来を小さく閉ざしてしまったのかもしれない。
壇上から下りたとき、脚が震えていた。
観衆はまだ笑っている。「りんご一個分の魔法」と小馬鹿にする声が響く。
だが、自分の耳には、その声よりも自分の心臓の鼓動の方が大きく響いていた。
苦悩が胸を押し潰す。
自分はただのアトミカ教会所属の新人鑑定士だ。立場も弱く、発言の責任を取れるほどの力もない。
だが――先程見た鑑定結果は、間違いなく特別だった。
そして、自分はそれを偽ってしまったのだ。
何度もあの情景が、思い起こされる。
会場の熱気から離れ、控えの小部屋に入ったとき、膝から力が抜けて椅子に崩れ込んだ。
掌には汗が滲み、資料の紙が湿って指に張り付く。
「収納魔法……りんご一個分」
口の中で繰り返すたびに、胃の奥がねじれる。
本当は「スキル」と書かれていた。それを知っていながら、自分はあえて言い換えた。
なぜか?
恐怖だ。
――もしあの場で「収納スキル」と告げていたら。
聴衆は理解できず、ざわつき、やがて罵声を浴びせただろう。
「アトミカ教の定義にない言葉を使うとは何事だ」
「異端思想を吹き込まれたのか」
「改革派の走狗か!」
その場で自分の立場は潰えただろう。まだ二十歳そこそこの若造に、そんな責任を背負う覚悟などなかった。
だから、口は安全策を選んだ。
「魔法」という既存の枠組みに押し込めた。
それが結果として、少年ヴェゼルの未来を小さく狭めてしまったのだかもしれないのだ。
胸中で、改革派の噂がふくらんでいく。
彼らは囁く。
「魔法とは、本来スキルの一部にすぎない。人が扱う力はもっと多様で、本来は無限の可能性がある。初代教皇はそれを恐れ、力を制御するために“魔法”と定義づけた」
その話を聞いたときは鼻で笑った。
だが、いまは笑えない。
目の前で見たのは、明らかに既存の魔法属性とは異なる光だった。
スキルは成長する。レベルアップし、進化する。
そう伝えられている。
もし――ヴェゼルの「収納スキル」がそうならば?
最初は「りんご一個分」でも、やがては馬車を、兵を、あるいは城そのものを収納させる力に育つのではないか?そして、言い伝えなのか虚言なのか、「収納」が「転移」に進化したりすれば。。
考えただけで背筋が寒くなった。
それは戦略を一変させる。国をも動かす。
それほどの可能性を秘めた力を、今、自分は「笑い話」としてしまったのだ。
窓の外からはまだざわめきが聞こえる。
「りんご収納の坊や」「面白い魔法だ」
貴族たちは冷やかしと軽蔑を混ぜた声で笑っている。
だが、自分の胸の奥では別の声が響く。
答えを出せないまま、両手で顔を覆った。
そして、もうひとつの恐怖がある。
もし、この真実に気づいたのが自分だけではなかったら?
もし改革派の者が、この場にいて「見た」なら?
ヴェゼルは、彼らに目をつけられる。
それは庇護かもしれないし、利用かもしれない。
そして原理派は、それを許さないだろう。
「スキル」の存在は教会の根本を揺るがす。
宗教的権威そのものが崩れかねない。
――少年は、渦に巻き込まれる。
まだ五歳の幼子が。
それを理解してしまったからこそ、背筋に冷たい汗が流れる。
(俺が「スキル」と告げていたら……あの子は、この場で“異端の申し子”と呼ばれたかもしれない)
だから、自分の選択は間違いではなかった――そう言い聞かせたい。
だが、同時に、あの瞳に宿っていた期待を裏切ったのも事実だ。
小部屋の扉が開き、同僚が顔を出す。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
慌てて背筋を伸ばし、書類を閉じる。
「……大丈夫です。ただ、緊張しただけで」
同僚は苦笑し、「新人には荷が重い儀式だからな」と肩を叩いて去っていった。
その優しさが、逆に胸を締めつけた。
自分が本当に失敗したことを、誰も知らない。
だが、真実を知っているのは――自分と、あの書類だけ。
机の引き出しに書類を滑り込ませ、深く息を吐いた。
(あの子の未来を、俺はどうにか救えるのだろうか……)
苦悩はまだ終わらなかった。
公式の報告を提出してから数日後。
城下ではまだ「りんご一個分の収納魔法」という奇妙な話題が、貴族や市民の噂の種となっていた。人々の笑いに混じって、ほんの一握りだけ「いや、あれは妙だ」と囁く者もいた。
だが、教会内部ではその波紋はもっと深く、そして静かに広がっていた。
アトミカ教の司祭たちの集会室。重厚な石造りの円卓を囲み、数人の神官が小声で議論を交わしている。
その中には、改革派に属する密かな仲間たちの顔もあった。
「通常の収納魔法なら最低でも1立方メートル、今までの最大は20立方メートルくらいだったか。それと比べてりんご1個分。。10立方センチというのはあまりにも異質だ」
「容量が“りんご一個分”などという表記は前代未聞だ。これは……むしろ“スキル”の記述に近い」
「しかし公式には“魔法”として記録されている。これを異端審問にかければ、少年も鑑定士も無事では済むまい」
オースター司祭――彼は部屋の隅で縮こまっていた。
目立たぬように沈黙を守りながらも、心臓が喉までせり上がるのを感じていた。
(やはり……見抜く者は見抜く。俺は嘘をついたのに……)
原理派の上官が冷ややかな声で言い放つ。
「収納魔法と記された以上、それ以上でも以下でもない。我らは記録を重んじる。曖昧な推測は異端を生むだけだ」
その言葉に、場の空気が一気に凍りついた。
改革派の者たちは互いに視線を交わすが、反論する者はいない。
会議を終えた夜。
オースター司祭は一人、教会の小さな礼拝堂にこもっていた。
誰もいない暗がりで膝を折り、祭壇の前に跪く。
「神よ……もし、もしもあなたが見ておられるのなら……俺は間違ったのか? 真実を隠し、少年を守ったのか、それとも……可能性を奪ったのか……」
震える声が石壁に反響し、孤独をさらに深める。
そのときだった。
――光が差した。
いや、松明の灯ではない。
礼拝堂全体が柔らかな黄金の輝きに包まれ、天井の高窓から何かが降り注ぐような感覚が広がった。
耳の奥に、直接響くような声があった。
『若き鑑定者よ。嘆くな。お前が選んだ道は、間違いではない』
オースター司祭の心臓が止まったように感じた。
これは――夢ではない。幻聴でもない。
確かに、神の声だった。
『魔法とスキル。二つは表裏一体にして異なるもの。初代教皇が定めし枠組みは、人が恐怖を制御するための囲いにすぎぬ。だが真実は、力は成長し、進化する“スキル”に宿る』
光はさらに強まり、祭壇の聖像が生きているかのように輝く。
『やがて現れるであろう。魔法とスキルを詳らかにする者が。この世界の真理に触れ、その境界を示す者が』
オースター司祭は息を呑んだ。
「……それは……誰なのですか……?」
『その名を――〓〓〓。
お前がその者の前に立てば、一目でわかるだろう。
その者は光と闇を抱き、世界に新しき秩序をもたらす。』
オースター司祭の背筋に戦慄が走った。
神が名を告げるなど、教会の記録でも数百年に一度あるかないかだ。
光はやがて静かに消え、礼拝堂は再び闇に沈んだ。
だがオースター司祭の胸の奥には、確かな温もりが残っていた。
(……その者が現れるとき、俺は必ず協力せよと……そう、神が仰った……)
震える手で胸を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。
今まで自分は迷い、怯えてばかりだった。
だが今、進むべき道が示された。
ヴェゼルの“スキル”を隠したことも、もしかすればその布石なのかもしれない。
いつか現れる〓〓〓――その者が全てを解き明かす日まで、自分は生き延び、真実を守り続けなければならない。
夜風が吹き抜ける中、礼拝堂を出た鑑定士は空を仰いだ。
星々が冴え渡り、その一つ一つが神の眼差しのように見えた。
(俺は……見届ける。あの少年も。そして、〓〓〓と名乗るその者も。必ず……)
覚悟を胸に刻み、若き鑑定士は静かに歩き出した。
その背中はまだ細く頼りなかったが、運命はすでに彼を大きな渦の中へと引き込みつつあった。




