第146話 新商品を皇妃に献上にいく 03
皇妃の個室での面会が終わると、ルークスは深く礼をして退出した。
面会が終わって皇妃はすぐさま執事に命じた。
「財務大臣と次官を呼びなさい。いま持ち帰ったものを、あの二人にも見せる必要があります」
しばらくして、大臣と次官が小部屋に姿を現した。年季の入った帳簿の匂いをまとった大臣と、几帳面そうな次官。
皇妃は机の上に小さな箱を置く。その中には、先ほどルークスが献上したばかりのそろばんが収まっていた。
「さて、こちらをご覧になってくださいませ」
執事が箱を開き、そろばんを取り出すと、球が滑らかに動く様子を見せながら、使い方を丁寧に説明した。球の一つ一つを弾くたびに、軽やかな音が部屋に響く。
財務大臣は眉をひそめ、次官は目を丸くしてそろばんに見入った。
「これは……!」大臣が声を漏らす。
「こんな道具が、計算に……?」
次官は思わず身を乗り出し、球を指で弾く。すると計算のスピードが劇的に上がり、書類の山がたちまち片付く妄想が頭をよぎったのか、次官は息を詰めたまま、にやりと笑う。
「これを使えば、業務は何倍……いや何十倍も捗ります! まさに革命的です!」
財務大臣は苦笑いを浮かべつつ、そろばんを手に取り、軽く球を動かしてみる。
「……これは確かに、素晴らしいな。商人も、帝国の行政に関わる者も、皆欲しがるだろうな」
そして、執事が言う。
「これを献上した者が置いて行った説明書に書いていあったのですが、子供の時からそろばんに慣れ親しむと、論理的な思考力や空間把握能力、創造力、発想力も鍛えられると。また、集中力と記憶力も自然と養えますので、学習の基礎としても最適だといっておりました」
皇妃は、そろばんの説明書をまだ読んでいなかったので、その説明を聞いて瞠目した。
これもまた、知育玩具の延長線上にあるものだったのかと、感嘆を隠せない。
たとえオデッセイが助言していたとしても、これをたった六歳の子供が生み出すなど、常識では考えられない。
もしこのそろばんが、実際に六歳の子供の発想から生まれたものだとするなら、これはもはや天才の域を超え、異能と言って差し支えないだろう。
そこへ、皇帝が控え室に現れた。続いて、エクストラ宰相もその場に姿を現す。どうやら二人は、皇妃が「バネット商会からまた何か献上しにきた」という噂を耳にしたらしい。
その知らせを聞きつけたシェルパ皇子とエストレヤ皇女も駆けつける。二人は目を輝かせ、皇妃に駆け寄る。
「お母様! また面白い玩具ですか!」
皇妃は微笑みながら、そろばんを手に取り、事の次第を簡潔に説明する。財務大臣も熱心にそろばんの利便性を解説し、数字の世界でどれほど役立つかを実演する。
皇帝は一瞥すると、球が滑るそろばんに瞳を輝かせ、思わず口元が緩む。
「ふむ……これは実に有用だ。財務部では、全員分の導入を検討してみると良いかもしれぬ」
しかしその横で、エクストラ宰相の顔は陰鬱そのものだった。手を組み、顎を突き出し、明らかに忌々しげな表情で皇帝の言葉を聞く。
「陛下、これが有用だとしたら、帝国の管轄下に置くべきではないでしょうか? 個人や一商会の利に任せてよいものではありません。こうした優れた道具は、帝国が管理すべきでは?」
皇帝は宰相を軽くたしなめるように首を振る。
「それをしてはならぬ。自ら苦心して編み出したものを奪うなど、帝国の威信を損なうだけだ。……宰相、そなたも理解しているはずだろう」
宰相は口ごもりながらも、内心では理解していたようだ。
「……はい。陛下の仰せの通りです」
宰相は顔をしかめ口をつぐむ。皇帝の言葉の重さと、皇妃の意図を理解してはいる。しかし、固く凝り固まった視点から抜け出せず、心中のもどかしさがその表情に滲んでいた。
次官は興奮のあまり、そろばんを抱え込むように持ち上げ、机の上で球を弾く。その軽快な音に、皇子と皇女は思わず拍手する。
財務大臣はそろばんを手にしながら、にやりと笑い、次官に囁く。
「これは……文官全員分の購入、すぐに手配した方がよさそうだな」
次官も興奮気味に頷き、即座に書類を取り出して注文書を書くように指示を出す。
皇妃はそろばんを手に微笑みながら、思わずつぶやいた。
「やはり、オデッセイとヴェゼルの才は、単なる遊び心を超えていますわね……」
こうして、バネット商会から献上されたそろばんは、皇妃の個室から財務部、ひいては皇帝の耳にまで届き、帝国全体に波紋を広げ始めることになる。
計算速度の飛躍的な向上に、文官たちは目を輝かせ、宰相は複雑な顔で時代の変化を見守ることになるだろう。
皇妃は満足そうに微笑みながら、そろばんを箱に戻し、ルークスが次に用意した品々のことを考えていた。
誰もが思わず顔を輝かせる「道具」と「遊具」の違い。そろばんは、帝国の文官社会に笑顔と驚愕をもたらしただけでなく、皇子や皇女の無邪気な歓声までも引き出した。
エクストラ宰相は舌打ちしつつも、心のどこかで理解せざるを得ない。便利なものは便利なのだ。
皇帝はにやりと笑い、そろばんの球を指で弾きながらひとこと呟く。
「これもまた、世の中の進歩というものか」
こうして、そろばんは帝国に入り込み、文官たちの業務を劇的に効率化し、小さな大革命を巻き起こすのであった。




