第143話 新商品を作ろう 03 そろばんずく
あれから三日後。
領館の玄関に、荒れた髪と大きな目の下のくまを隠しきれないパルサーが飛び込んできた。
両腕いっぱいにそろばんを抱え、まるで「これが命の証だ」と言わんばかりに大事そうに抱きしめている。
その後ろにはパルーサーの夫のガゼールが、苦笑いを浮かべつつ付き従っていた。
「……昼夜問わず、そろばん作りに没頭しすぎて、飯もろくに食わずに突っ走ってたんだ」
ガゼールがそう肩をすくめて説明するのを聞いた瞬間、オデッセイが黒い顔のまま立ち上がり、侍女セリカに向かって「サンドイッチを、今すぐ!できるだけ山盛りで!」と指示した。
セリカは「は、はいっ!」と駆けていき、場の空気は妙な緊張と笑いの混じったものになる。
その場にはルークスとフリード、さらに今日はカムリとグロムも加わっており、グロムの横にはコンテッサまでいるという大人数。
まるで評定のような真剣な空気の中、パルサーが大事に試作品を差し出す。
「球の大きさを揃えるのが、何よりも大変で……」
パルサーは目をこすりながら説明した。
「それと、中心に穴をあける作業。ずれれば珠がスムーズに動かないんです。量産するなら、均一の加工が必須ですね。……木工職人としては、そこが一番の難関でした」
皆、真剣にうなずく。
そしていよいよヴェゼルが試作品を手に取った。カチャリと珠を動かす音が響く。驚くほどスムーズだ。
「これは……素晴らしい仕上がりです」
ヴェゼルの言葉に、パルサーの疲れた顔が一気に輝く。
だがその感動を遮るように、ルークスが「待ちきれない!」とばかりに横から手を伸ばし、そろばんを奪って珠をカチャカチャと動かし始めた。
「どうやって計算するんだ? 教えてくれ!」
カムリもオデッセイもグロムも前のめり。
普段から領政で数字に悩まされている彼らにとって、そろばんは救世主のように見えた。
ただ、フリードはどこ吹く風で、他人顔で覗いている。
ヴェゼルは咳払いし、得意げに説明を始める。
「下の一珠が四つ、上の五珠が一つ。それで一から九までを表せます。桁が増えると左に移り、小さくなると右に戻る。これを使えば足し算も引き算も、速やかにできます」
皆が実際に珠を弾き始める。慣れない指先に悪戦苦闘しつつも、計算結果が目の前に「見える」ことに感嘆の声が上がる。
「こ、これは革命だぞ!」
ルークスが大声で叫んだ。
「商人も役人も、これなしでは仕事にならなくなる! サッカーボールは子どもに大人気になるだろうが、このそろばんは……まさに文明の飛躍だ!」
場が大きくどよめく中、オデッセイは黒い顔のまま、すっと立ち上がった。
「パルサー。このそろばんを一つ、最高品質で作ってちょうだい。皇妃様への献上品にするわ」
続けざまに革職人アトラスへの伝令を飛ばす。
「アトラスには、皇妃献上用のサッカーボールを一つ。必ず最高の革を使ってと伝えてちょうだい」
これを聞いたルークスは、呆れきった顔で母を見つめた。
「……姉さん、また一つですか?」
「そう、一つよ」
黒い顔を崩さず答えるオデッセイ。
ルークスは頭を抱えてうめく。
「また皇宮とこの領を往復するのかよ……。俺の脚が摩耗する……」
その嘆き顔に、フリードが腹を抱えて笑い、カムリが口元を押さえ、グロムとコンテッサまでくすくすと笑いを漏らす。
こうして領館は、そろばんの珠よりも大きな笑い声で満ちたのだった。




