第138話 エクステラ宰相帰る
エクステラ宰相の一行は、一瞥をくれるように領を見てから、門を越え、整然と隊列を保ったまま去っていった。
一度も振り返ることもなく、厳格な表情を崩さないまま去っていくその姿は、館の前に残った者たちに、安堵とともに微かな緊張感を残した。
蹄の音が次第に遠ざかると、館の前には普段の静けさが戻った。
しかし、誰もが気持ちを完全に解放できたわけではなかった。宰相の振る舞いには不穏な匂いが含まれていた。
帝国の公爵随行という権威ある来訪であり、彼の冷たい視線は、ビック領の「真相」を探ろうとする意図を秘めているかのようだった。
そのため、館では用心の手を緩めることはできなかった。
会議直後、領内の警戒のために、グロムとコンテッサには領の隅々を慎重に見回るよう命じられていた。
特に、密偵や工作員の動きがないかを確認することは最優先事項だった。
数日後、グロムが領外縁を巡回した報告を持って館に戻ってきた。
怪しい者の目撃はなく、コンテッサを含めた情報網にも異常は見受けられなかった。あれほど入念に出した警戒策は、結果として空振りに終わったことになる。
その報告を聞いた者が一瞬ため息をつく中、コンテッサは静かに首をかしげ、淡々と微笑んだ。
「私たちの労が無駄に終わったということは──領内が平穏である証拠です。無駄ではありません。予防が功を奏した結果なのです」
彼女の言葉には確固たる信念と、女性ならではの優しい慰めが混ざっていた。
確かに、何も起こらなかったこと自体が、抑え込みの成功を示しており、防御の本質が正しく機能したことを示していた。
その夜、領館の会議室では改めて情報の整理が行われた。グロムの巡回報告書、現地の状況、コンテッサが回収してきた村人たちの噂や小さな気づき。
すべての情報は、領内が現在平穏であることを指していた。
しかし、誰もが油断は禁物だと認識していた。
エクステラの来訪は、領内の一時的な沈静を示すに過ぎず、真の脅威が再び姿を現す可能性は依然として残っていたからである。
そのため、当面の対策は継続されることになった。
巡回の頻度を以前の水準に戻すわけではないが、夜間の見回りや市場、主要な要所での監視は続けられ、情報網も引き続き密に維持されることとなった。
コンテッサはその監督役を自ら買って出た。
昼間は執務を行い、夜には館の周縁を歩き、村人の一声も見逃さないという姿勢で領内を巡回する。
グロムは地域の古株として若い従者たちを指導し、互いの役割は自然にかみ合っていった。
晩酌の席で、オデッセイが言った。
「無事だったのは幸運ですが、幸運に甘んじることなく、私たちの備えがその幸運を支えたのだと思います」
皆は短く頷き、軽い笑いが漏れた。
その笑いの端々に含まれるものは、安堵でありながらも、互いを守る覚悟の温度でもあった。
そして、ルークスが久々に帝都から戻ってきた。
馬車を降りるや否や、深く領内の空気を吸い込み、ほっとしたような表情を浮かべる。
懐かしさと安心が混ざった笑みが、長旅の疲れを一瞬で隠していた。
それを見たヴェゼルとヴァリーは、すぐさま出迎えに立つ。
ヴェゼルは少し背筋を伸ばし、目の端でルークスを観察しながらも、自然と微笑みが浮かぶ。
ヴァリーは相変わらずヴェゼルによりそったまま、挨拶をする。この頃サクラは、ヴェゼルだけではなく、ヴァリーの肩や頭に乗っていることが多くなった。今日もヴァリーの肩に乗っている。
そして領館の応接室にみんなが陣取った。
「帝都はどうだったんですか?最近の様子を知りたいな」
ヴェゼルが先陣を切るように問いかけると、ルークスは馬での移動の揺れを思い出すかのように肩をすくめ、口を開いた。
「案の定、しばらくは“百対五千の戦い”が話題の中心だった。だが、今は少し様子が変わってきてな……どうやら、あまりの圧勝劇に民も貴族も首をかしげて、『誇張されているのではないか』という見方が、だんだんと主流になりつつあるらしいな」
その言葉に、ヴェゼルは軽く眉を上げ、口元に微かな笑みを浮かべる。ルークスの語る“民の心理”は正しい。
人は、あまりに信じがたい話に遭遇すると、知らず知らずのうちにそれを虚構として処理してしまう。
帝都も例外ではないのだ。
しかし、それ以上に騒がれているのは、ヴェゼル本人に関する噂だったようだ。
六歳にしてすでに五人の婚約者を侍らせ、十人の愛人を抱え、さらには三人の子供までいる――そんな荒唐無稽な話が、帝都の社交場では半ば定説として囁かれているというのだ。
ちょうどその話を聞いていたヴェゼルは、手元の紅茶を思わず吹き出してしまう。茶液が向かいにいたヴァリーにかかる。
「わっ、ちょっと!ごめん!」
しかし、ヴァリーは一瞬顔をしかめるも、すぐに袖でぬぐいながら、うっとりとした表情で小さく呟いた。
「……聖水……尊い……」
ヴェゼルは椅子から転げ落ちて、その場で頭を抱えた。
「最近ますます、ヤバい世界に足を踏み入れてると思うんだけど……」
その真顔に、周囲も思わず笑いをこらえられなかった。
そんなドタバタを軽く笑い飛ばしつつ、ルークスは再び真顔に戻り、慎重に口を開く。
「……それはそれとして、話を戻すが、市場も落ち着いてきたし、ビック領の人口も着実に増えてきている。これから領内の経済を活性化させるためには、新しい商品開発を始める時期なんじゃないか」
ヴェゼルは興味深そうに眉をひそめる。
「領内で余っている素材とかは、何があるの?」
ルークスはしばらく考え込み、思い返す。
「木工では、積み木を作った際に出る端材がまだ沢山余っているな。それと、魔物の肉も燻製すれば長期保存ができるから、売れてるんだが、ただ、皮製品は鎧や鞄以外の用途が少なくて、在庫が積み上がって困っているようだ。領内では簡単な作業なら、ぜひやりたいという村民が多いと思うぞ」
ヴェゼルの瞳が光る。
「計算道具?は……この領にあるの?」
「計算道具?そんなもんないぞ。紙や羊皮紙、石板に書き込むくらいで、そんな物ははじめて聞いたな。便利な道具がなのか?」
その瞬間、ヴェゼルの頭の中で回路がつながった。
「なら、そろばんを作れば売れるはずだ」
領民に親しまれ、商人や職人の手に渡れば、自然に流通が活性化する。知育面でも価値がある。
さらに、ヴェゼルは屋内の遊びと教育玩具は作ったので、今度は屋外用の体を使う遊び道具の可能性も思いついた。
皮の用途といえば、丸い玉――そう、子供たちが夢中になるサッカー用のボールだ。
「サッカーボールを作ってみよう。子供たちは夢中になるし、ある程度売れるだろう」
ルークスは目を瞬かせ、首をかしげた。
「サッカーボール?丸い玉を蹴る……? 何のことだ?」
ヴェゼルはにやりと笑いながら答えた。
「作ってみればわかりますよ。きっと子供たちは喜びます」
彼の頭の中ではさらに、新商品としての可能性が次々に浮かんでいた。
ガラス製品の製造、保存食品の他の製造方法、皮の応用など。領民の生活を支え、流通を回すための選択肢が増えていく。
そんな折、館に先触れの使者が現れる。
サマーセット領のローグからの使者で、謝罪のためにビック領を訪れたい、という申し入れである。
館内は一瞬、静かなざわめきに包まれた。
勝者としての立場を確立した今、領としてどう応じるか――フリードは深呼吸をし、机の上の地図に視線を落とした。
「謝罪を受けよう。領として失礼のないように。必要以上に威圧することも、過剰に甘やかすことも避けよう」
ルークスは少し離れて、そのやり取りを見守る。
「……さて、これで領の準備は整ったか」
彼の声には確信と期待が混ざる。次に起こる出来事に向け、ビック領は静かに、その日常と戦略を整えていた。




