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第137話 エクステラ宰相の黙考

宰相の客間には、厚い絹の帳が垂れ、外の灯りを遮っていた。


蝋燭の炎がわずかに揺れ、室内に陰影を落とす。


エクステラ宰相は卓上に置かれた銀の杯を手にしたまま、長く動かなかった。


ホーネット酒の香りは確かに芳醇だが、口に含む気にはならない。彼の思考は、もはや一滴の酒よりも濃く苦い。


――どうすればよいのか。どうすれば、帝国に利があり、この辺境の小家がもたらす歪みを正せるのか。


今回の裁定は表向き、帝国として筋を通すものだ。だが、真実は帝国そのものの存立に関わる危機を含んでいた。


百の兵で五千を破るなど、常識ではあり得ぬ。作り話ならば、笑い飛ばせる。


だが、それがどうやら真実であると、フリードもオデッセイも、あの「無能」と呼ばれていた嫡男までもが確信させるような空気を纏っていた。


いや、むしろ真実だからこそ、帝国の秩序を揺るがすのだ。


「弱きものが強きを打ち倒すなど……断じて許してはならぬ。」


宰相は低く吐き捨てる。


帝国は強者が弱者を守る。その一点において他国と異なる秩序を築き、長きにわたり繁栄を享受してきた。


下剋上の芽を一つでも放置すれば、やがてそれは帝国全土に広がり、諸侯は不安に駆られ、兵は秩序を失い、帝位そのものに陰が差す可能性もある。


それは、歴史が証明しているのだ。だからこそ、帝国は揺るがぬ。だからこそ、ビック家の存在は脅威なのだ。


しかも追い討ちをかけるように、あの公爵の愚行。


「ヴェゼルが処断するならば、領内において一切の咎めを受けぬ」――治外法権を認める前代未聞の誓約。


しかも文書化され、互いに所持している。宰相が目にしたとき、あまりの愚かしさに怒りで机を打ち砕きそうになった。


これを放置すれば、帝国の法は辺境で形骸化し、次々と同様の前例が生まれる可能性がある。帝国は帝国でなくなる。宰相の信念からすれば、決して容認できぬ。


「廃棄せねばならぬ。あの文書は、なんとしても。」


宰相は杯を置き、深く腰を椅子に沈める。炎に照らされる瞳には冷酷な光が宿っていた。


では、どうするべきか。方法はいくつも考えられる。


第一に、内側から腐らせること。


ビック領の経済は、酒・シロップ・白磁など、急速に発展しつつあると聞く。これを支えるのは交易であり、市場である。


ならば、帝都の有力商会を通じて密かに圧力をかけ、取引の条件を不利にし、信用を削ぐ。


価格を操作し、流通路を妨害すれば、領の富は徐々に枯れる。富なき家は力を維持できぬ。


第二に、名誉を汚すこと。


ヴェゼルはまだ六歳の童にすぎぬ。


だが婚約者を三人も侍らせているという評判が、帝都ではすでに醜聞として広まっている。


そこにもっと悪意ある言葉がをばら撒けば、帝都の社交界で彼の評価は地に堕ちる。


人は真実よりも噂を信じやすい。ならば、噂を拡げ、誇張し、ヴェゼルを軽薄な子供として定着させればよい。


誰も真剣に彼を見なくなる。それは力を削ぐ一手となろう。


第三に、孤立させること。


今は公爵や皇妃すらもその才を認めたかのように見える。


だが、貴族とは風のように移ろいやすい。宰相はよく知っている。


恩を着せ、同時に疑念を植え付ければ、周囲の支持は砂上の楼閣のように崩れる。


帝国の重臣の中に「ヴェゼルは危険だ」と囁き続ければよい。やがて彼の名は孤立し、支えを失う。


第四に、分断すること。


ビック家の家臣や周辺領主は、今は勝利に酔い、結束している。


だが、人の心は常に揺らぐ。恩賞の配分、領土の境界、商権の取り分――少し揺さぶれば不満は芽生える。


密かに金を流し、疑心暗鬼を煽り、内部に裂け目を生じさせるのだ。一度ひびが入れば、それは必ず広がる。人の集団とはそういうものだ。


第五に、正面から裁きを下すこと。


最も単純だが、最も難しい道。帝国法に照らし、ヴェゼルの契約や行いを不当と断じる。


だが、これは強引すぎる。証拠もなく押し切れば、かえって帝国の権威が疑われる。


ゆえに慎重に機を待たねばならぬ。だが、いずれその時は来る。宰相は確信していた。


「……ビック家をただ倒すのではない。弱らせ、削ぎ落とし、やがて帝国の秩序に従わせねばならぬ。」


彼の思考は冷徹だった。


ヴァリーの変貌にも思いは及んだ。あの怜悧な女が、ヴェゼルの隣で微笑む少女に変じていた。


あれほどの人物を変えるとは、確かにただ者ではない。


だが、それも脆い。愛情や忠義など、人の感情は最も揺らぎやすいもの。


そこを突けば、必ず崩せる。宰相は幾度となく人心を操ってきた。今回も同じことだ。


宰相は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。夜の闇が広がり、遠くの丘に灯が瞬いている。


あれがビック領の村の光なのだろう。活気に満ち、人々が笑い合い、未来を信じている光。


だが宰相には、それが不快でならなかった。帝国の秩序を揺るがす兆しが、そこに明滅しているように見えた。


「打たねばならぬ……出る杭は。」


彼の声は闇に溶けた。だがその決意は鋼のように硬く、揺らぐことはなかった。


エクステラ宰相は、この夜に誓ったのだ。


必ずや、ビック家を帝国の秩序に屈させると。たとえどれほどの策を弄しようとも。


たとえ、いかなる血が流れようとも。


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