第135話 戦争の裁定結果がやってくる01
帝国からの使者が領館に姿を現したのは、いつもよりも冷たい風が吹きすさぶ夕刻のことだった。
「帝国より勅報を携えてまいった」――低く重い声で読み上げられたその文は、誰もが待ち望み、同時に恐れていた内容を告げていた。
すなわち、先の戦争の裁定がようやく下されたこと、そしてその裁定を伝えるために、帝国宰相自らがビック領を訪れる、というものだった。
それを告げると宿泊してはどうかという誘いを断り、使者は帰っていった。
館に集まったみんなたちの間に、ざわめきが広がる。
「宰相が……直々に……?」
「いや、そんなことは聞いたことがない。裁定など書面で十分だろうに」
「これは、ただの伝達ではないな。何か、ある」
ざわつく声が広間を満たし、張り詰めた空気の中でひときわ冷静に声を発したのはコンテッサだった。
つい最近まで帝都の公爵邸に仕えていた彼女は、帝都の内情に明るい。
「エクステラ宰相……彼は皇帝陛下の異母兄にあたります。帝国第一主義を貫く御方で、帝国のためならば血も涙も惜しまないと評されております。聡明ではありますが、同時に猜疑心が強い。今回の戦で伝えられている大戦果についても、あれは誇張されたもの、捏造に近いものだと信じておられるようですね」
その言葉に、フリードやオデッセイの顔が引き締まる。
「つまり……こちらを試しに来る、というわけか」
「下手をすれば、裁定どころか糾弾の場になりかねないな」
さらにコンテッサは声を落とし、耳打ちするように続けた。
「加えて……公爵様からのお言葉ですが、宰相様はビック領に対して、あまり良い印象を持っておらないようです。あの方からすれば、辺境の小領地が戦で大領地の高位貴族を破り、大手柄を立てたなど、面白いはずがないのです」
その場にいた誰もが息を呑んだ。戦での勝利が、必ずしも評価に繋がるとは限らない。それが帝国という巨大な器の理であった。
――だが、それだけでは終わらない。
コンテッサは少し言い淀み、それから言葉を選んだ。
「……そして、もうひとつ。ヴェゼル様の、帝都での貴族方の評判についてです」
視線が一斉にヴェゼルへと注がれる。彼はまだ幼さを残した顔立ちで椅子に腰掛けていたが、その瞳には年齢以上の冷静さが宿っていた。
「……なんと言われているの?」
コンテッサは苦い顔をして告げる。
「“六歳にして婚約者を三人も侍らせるマセガキ”――それが、帝都で最も広まっている評判でございます」
「なっ……!」
その場にいたヴァリーが思わず声を上げ、アクティは大きく目を丸くする。フリードは「なるほど、そう来るか」と唇を噛み、オデッセイは思わず天を仰いだ。サクラはヴェゼルの頭の上でケラケラと笑っている。
コンテッサはさらに追い打ちをかけるように続けた。
「加えて……十七歳も年上の女性と婚約した、という話で、それが拍車をかけ、“スケコマシ”だという噂は、もはや決定的となっているようです」
ヴェゼルは無言でそれを聞き、やがて顔からすべての感情を消し去った。
いわゆる“無の表情”である。場に重苦しい沈黙が流れ、誰もすぐには言葉を発することができなかった。
やがてフリードが咳払いし、話題を宰相への対応に戻した。
「まぁ……噂は噂として。我々が考えるべきは、宰相をどう迎えるか、だな」
議論が始まった。虚飾を凝らして取り繕うべきか、それとも正直に領の姿を示すべきか。意見は二つに割れた。
オデッセイが低く呟く。
「下手に隠そうとすれば、その宰相の性格ではかえって疑いを深めるそうね。ならば、ありのままを見せるべきじゃないかしら」
「しかし!」とフリードが声を荒げる。
「すべてをさらけ出すなど危険だ。領の力を知られすぎれば、帝国の思惑に飲み込まれる可能性がある!」
そこで、コンテッサにだけは真実の一端を伝えることになった。
オデッセイが静かに立ち上がり、ヴァリーの魔法や、ヴェゼルの魔法の特異性の概略を語る。
その力がいかに常識を逸したものであるか、そして今回の戦果が決して誇張ではなく、ほぼ事実であることを。
コンテッサは公爵からなんとなくは聞いていたが、それがあらためて事実と知り、その目が見開かれ、息を呑む音がはっきりと聞こえた。
「……そこまでの……」
しかし彼女はすぐに膝を折り、深々と頭を垂れた。
「そのような御方に仕えられるのであれば、むしろ光栄です。帝都でどのように囁かれていようと、私は事実はただ一つ、やはりビック家は稀有な御方々だということです」
その言葉に、重苦しかった空気が少し和らぐ。だが、決断はまだであった。
最終的に出された結論はこうである。
――酒、シロップ、白磁の根幹部分、そして妖精サクラやヴェゼルの魔法の真の力。これらは秘匿する。宰相に見せるのは、取り繕わぬ、ありのままの領の姿。それ以上でも、それ以下でもない。
「虚飾を弄すれば、かえって疑われる。ならば、誠実さこそが最も強い武器となる」
そうオデッセイが締めくくり、皆が静かに頷いた。
それでもなお、不安は完全には拭えなかった。帝国宰相エクステラ――帝国のためにすべてを犠牲にできる男。彼の目に、ビック領はどう映るのか。
夜は更けていった。会議の場を辞したあとも、誰もが胸の奥に重い石を抱えたまま眠りにつくことができなかった。
遠からず訪れる嵐の前触れを、誰もが肌で感じ取っていたのである。




