第126話 アヴァンタイムビック領へ行く 7
朝食が終わり、館の雰囲気はいつも通りの穏やかさを取り戻した……かに見えたが、アヴァンタイムは不意に、ひとつの異変に気づいた。
「……おかしい。スペルブは?」
通常ならば、彼の席はアヴァンタイムのすぐ隣にあり、朝食前には出発の準備を終えているはずだ。
しかし、いくら周囲を見渡しても、その姿はどこにもない。
目を細め、周囲を探すアヴァンタイムの視線に、部下の一人が困惑の表情を浮かべた。
「……あの、アヴァンタイム様、スペルブ様が、昨夜から戻っていません」
「……何だと?」
アヴァンタイムは眉をひそめる。昨夜、潜入を任せたのは確かに自分だ。
しかし、その後それ以降の彼の足取りは不明のまま。
部下たちは口々に推測を述べた。
「まさか、何者かに襲われたのでは……」
「しかし、スペルブ様は隠密と戦闘の双方に優れています。普通の者に捕まるはずがありません」
「別の組織か……あるいは、逃亡か?」
議論が堂々巡りになる。アヴァンタイムは頭を抱え、しばし黙考する。
フリードは直情的で顔に嘘が出るタイプ、だからすぐにわかりそうだ。
オデッセイは細腕の女性で、スペルブと渡り合える力はないだろう。
他の従者や侍女たちも、戦闘能力は目立たず、強者は館内にあまり見当たらなかった。
ふとヴェゼルの部屋での一件を思い出す。ヴァリーとヴェゼルが同じ布団で寝ていたことが、「アリバイ」となり、昨夜の事件に直接関与していないことは確実だ。
しかし、それでも彼の所在は依然として不明であり、心は落ち着かなかった。
アヴァンタイムは部下たちに命じた。
「道中、あらゆる可能性を考慮しろ。スペルブの行方を探る手掛かりを見逃すな」
部下たちは頷き、注意深く行軍の準備を進める。
そしておざなりにさっさと挨拶を済ませて、領館を出立した。
帰りの道中、馬上でアヴァンタイムはつぶやいた。
「……あの領、何かを隠している。ただ、酒とシロップと白磁の製法を隠しているだけか、他にも何かあるのか?」
部下の一人が口を挟む。
「アヴァンタイム様、もしかしたら昨夜のスペルブが失踪したのも、領側の巧妙な罠の可能性はありませんか?」
「……いや。スペルブは隠密のプロだ。もし誰かに捕らえられたなら、もっと手際よく証拠が残されるはずだ」
議論は続くが、どの案も決定的な結論には至らない。
馬上から眺めるビック領の景色は穏やかで美しい。しかし、その裏で繰り広げられる策略と力の駆け引きが、この平和を保っているのだと理解せざるを得ない。
部下たちも言葉少なに馬を進める。
帝都に向かう道中、アヴァンタイムは何度も振り返り、ビック領の姿を目に焼き付ける。
そして、埃まみれになりながらも、ようやく長い道のりを踏破し帝都が視界に入ったころ、アヴァンタイムは決意を新たにした。
「……ヴェゼルは確かに、バカで色ボケのマセガキだ。しかし、次に会うときは、今回のように甘く見てはいけないのかもしれない」
スペルブの行方は依然不明のままだが、これもまた、ビック領が隠し続ける力の一端なのだと、彼らは理解せざるを得なかった。
その日の夜、帝都の自室に戻ったアヴァンタイムは、深く息を吐く。心中には、ビック領の不可解さ、そして今回の一連の出来事が重くのしかかっていた。
窓の外の星空を見上げながら、スペルブの行方、そしてビック領をどこまで把握できるかが、今後の帝国の動きに大きな影響を与えることになるのだと、痛感していた。
そのとき、アヴァンタイムの頭にふと、ヴァリーの言葉がよみがえった。
魔法省を辞める理由を問うた際、彼女は真剣な瞳でこう答えていた――「今は私の魔法の師匠でもある――ヴェゼル様」と。
アヴァンタイムは思わず眉をひそめる。
りんご一個分しか収納できないという“ハズレ魔法使い”の小僧が、どうしてあのヴァリーの師匠なのか。理解の糸口が全く見えず、首をかしげるばかりだ。
しかし、同時に心の奥底で、あのビック領で何か重要なものを見落としているのではないかという予感がじわじわと広がっていく。表面上の風景や領民の挨拶、領主や嫡男の振る舞い――いずれも整っており一見隙はだらけに見える。しかし、それこそが何かを巧妙に隠している証拠のようにも思えた。
アヴァンタイムは思考を巡らせながら、静かに深く沈み込んでいった。目の前の事実だけでは計り知れない何か――それを解き明かさねば、魔法省の重要な任務にさえ影響しかねないという焦燥感が、胸の奥で静かに燃え広がるのであった。
こうして、ビック領での一幕は閉じた。




