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第124話 アヴァンタイムビック領へ行く 5

 その日の夕餉も、つつがなく終わった。


 豪奢とは言えぬが、地元の恵みを巧みに活かした料理の数々が卓を飾り、遠路を経てきた客人をも満足させる内容であった。


香ばしく燻された肉、麦を練り込んだ素朴なパン、そしてホーネット酒。どれもが滋味に富み、アヴァンタイムも、内心では「田舎にしては悪くない」と思わざるを得なかった。


 しかしその舌鼓の裏で、彼の胸には重苦しい思いが渦巻いていた。


 ――やはり、何かを隠している。


 日中に視察した限り、この領には不釣り合いな繁栄の兆しがいくつもあった。人口はさほど多くない。にもかかわらず、領民は皆明るく、食糧事情に窮している様子もない。


 街道を行き交う人々の顔つきも、他の辺境とは一線を画していた。飢えや不安からくる険しさが見られないのだ。


 燻製肉の質の高さ、酒やシロップの豊かさ、そして陶工が扱う白磁の品。


どれもが帝都でも高値で取引される希少品でありながら、流通の源が明確でない。


領主一家とごく限られた従者だけが核心を握り、外部には決して洩らさぬよう厳重に秘匿されている――それが、アヴァンタイムの調べから導き出された答えであった。


 食後、館の大広間で催された小さな歓談の場で、アヴァンタイムは部下たちに目で合図を送り、話題を逸らしつつ明朝には帝都へ帰還する旨を告げた。


「今宵をもって滞在は終わりとしよう。明日の朝、我らはこの地を発ち、帝都へ戻る」


 その宣言に、場は一瞬だけ静まり返った。


 やがて、オデッセイが涼やかな笑みを浮かべ、しなやかに身を傾けて言った。


「それは残念でございます。またいつでも、ぜひお越しくださいませ。ビック領はいつでもアヴァンタイム様のお訪ねをお待ちしております」


 声音に一点の曇りもなかった。誰もが礼を尽くした言葉と受け取っただろう。


 だが、アヴァンタイムの耳には別の響きとして届いた。


 ――もう二度と、この領には来るな。


 背筋にひやりとしたものが走る。


 直後、彼は苦虫を噛み潰すように表情を歪め、杯を置いた。


(くっ……この女……!)


 だが同時に、彼の胸には奇妙な確信が生まれた。


 今の一言で、間違いなくこの領は何かを隠している。そうでなければ、あの女が本心を押し殺すような視線を向けるはずがない。


 そのとき、ふと視線の端に映ったフリードの顔。


 領主は心底安堵したように肩を落とし、ほっと息をついていた。まるで「危うく核心を見抜かれるところだった」と言わんばかりの表情である。


(……やはり、そうか)


 アヴァンタイムの直感は鋭かった。


 彼は杯を傾け、表面上は朗らかに歓談を続けながら、内心では策略を巡らせる。


 夜更け。


 灯りが落ち、館の喧騒がすっかり静まり返った頃、アヴァンタイムは執務机の前で一人の部下を呼び寄せていた。


「……スペルブ」


 影のように現れたのは、彼の腹心にして最も隠密に長けた男。痩身だがしなやかな筋肉を備え、闇に紛れれば姿を消すとさえ噂される人物であった。


「呼ばれて参上いたしました」


「命ずる。今宵のうちに、この館裏にある貯蔵庫へ忍び込み、酒やシロップ、あるいは白磁の資料や技術書があれば持ち帰れ。ひと欠片でも構わぬ。明日の朝には我らは発つ。今夜が唯一の好機だ」


 スペルブの眼光がぎらりと光る。


「承知いたしました。必ずやお持ち帰りいたします」


「よいか。決して痕跡を残すな。相手は万年騎士爵の一族。調子に乗っておるようだが、我ら帝都の権威の前では蟻に等しい。……ただし、油断するな。あの領主、ああ見えて只者ではない」


 短く頷き、スペルブは闇に溶けるように姿を消した。


 ――その少し後。


 館の奥の寝所。「……ヴェゼル、ヴェゼル!」


 小さな声と共に、耳元をくすぐるような気配がした。


 ヴェゼルは薄く目を開ける。目の前に、淡い光をまとった少女――サクラがいた。


「どうしたの?」


「誰かが……貯蔵庫に忍び込もうとしてる」


その言葉に、ヴェゼルの瞳が鋭く光る。


 すぐさま上体を起こし、隣室にいるヴァリーのもとへそっと足を運んだ。


「ヴァリーさん、ヴァリーさん。起きて」


「……ん?……あら? ヴェゼル様? ま、まさか……夜這いに来てくださったのですか!?」


 跳ね起きた彼女は、眠気も吹き飛ばす勢いで頬を紅潮させた。


 即座にヴェゼルは彼女の頭を軽くチョップする。


「そんなわけあるか! 小声で喋れ!」


「い、痛っ……」


 額を押さえながらも、しおらしく頷くヴァリー。


 ヴェゼルは低く告げる。


「また侵入者が来たようだよ。サクラが知らせに来た。どうやらアヴァンタイムの部下らしいんだ」


 その言葉に、ヴァリーの表情から一瞬で浮かれが消え、戦士の顔つきへと変わった。


「……なるほど。やはり動いてきましたか」


 ヴェゼルは小さく息を吐く。


「アヴァンタイムの部下といえど、排除するしかないか。……後始末が面倒だけど」


 そのとき、廊下からしずかな足音。


 オデッセイが姿を現した。寝間着姿であるが、その眼差しは凛として鋭い。


「話はサクラちゃんから聞いたわよ」


「お母さん……」


 彼女は一歩近づき、二人を見回して小声で言う。


「ここで手をこまねいては、かえって不審を招くわ。排除なさい。警告の意味でも、アヴァンタイムに悟らせるべきよ――この領に手を伸ばせば代償を払うことになるとね。……ごめんねヴァリーさんも」


 その声音には冷たい決意が宿っていた。


 ヴェゼルとヴァリーは頷き、サクラを先頭に、館の裏手へ向かう。


 ――夜の闇。


 冷え込みが一層強まり、吐く息が白く浮かぶ。


 貯蔵庫のあたりは静まり返っていたが、その奥でかすかな物音がした。木箱を漁る音、紙をめくる音。


 スペルブは、目の前の机に積まれた書簡や帳簿を一つひとつ検めていた。手際よく革袋へと収め、足跡を残さぬよう細心の注意を払う。


(これさえ持ち帰れば、閣下に大きな成果を献上できる……!)


 だが、その背後にひそやかに忍び寄る影には気づかない。


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