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第123話 アヴァンタイムビック領へ行く 4

 秋の日は短い。山の端に沈みかける夕陽が、空と大地を赤く染め上げていた。


 ビック領の館に戻ったアヴァンタイムの部下二人は、アヴァンタイムに割り当てられた個室で、寸暇も惜しんで報告を始めた。


 椅子に深く腰を下ろしていたアヴァンタイムは、薄い笑みを浮かべながらも視線は鋭く、二人を見据えている。


「どうだった? この辺境の小領にしては、随分と妙な噂が流れているようだが」


 問いかけは冷ややかで、緊張が走る。長身の部下が恭しく頭を下げた。


「はい、アヴァンタイム様。やはり、他領の密偵も潜り込んでおります。宿場、酒場、村の商店街といった場所で耳を澄ませば、あちこちで尾を引くように噂が拾えます。ですが――核心は容易には掴めません」


 もう一人の体格の良い部下が続ける。


「ホーネット酒やホーネットシロップ、白磁の製造には村人も関わってはいます。けれど、肝心の核心部分は徹底して秘匿されているようです。たとえば、ホーネットシロップとホーネット酒の原料……あれは森の木から採取するのだそうですが、その木はこの周辺でしか育たないらしいと。森に足を踏み入れた者は少なく、詳細を知るのは古くから仕える従者や、ビック家の血縁筋ばかり。ごく限られた者にしか許されぬ秘儀のようです」


 アヴァンタイムは軽く鼻を鳴らす。


「ふん。ありがちな隠匿だ。だが、その森とやらの守りはどうだ? 兵を潜ませているのか」


「いえ……」と体格の良い部下は首を振る。


「過去に、職人を誘拐しようとした輩がいたそうです。しかし……」


 彼の声が僅かに震えた。


「……翌朝には全員、森の周辺で死体となって見つかったとか。奇妙なことに、どの遺体も体に傷がなかったと……」


 アヴァンタイムの眉がぴくりと動く。


「傷が……ない?」


「はい。ただ、例外がありまして。何体かは魔物に喰われたような痕があったとのことです。そして、ある遺体には……眉間に、小さな焦げ穴が穿たれていたと」


「妖精の祟りだとか、神の御業に触れたからとか、禁忌に触れたからなどと……」


 広間の空気がわずかに重くなる。火を灯した燭台の揺らぎが、不意に影を濃くした。アヴァンタイムの部下たちは口を噤み、しばし沈黙が落ちる。


「禁忌……それに眉間に……焦げた穴、か」アヴァンタイムは独り言のように繰り返した。


 魔法による狙撃の痕跡を想起させるが、そんな魔法を聞いたこともないし、あまりに正確すぎる。偶然ではあり得ない。だが、それが誰の仕業かを考えると、どうにも腑に落ちない。





 沈黙を破ったのは長身の部下だった。


「それと……帝国でこの頃、流行している燻製肉についてです。旅人や商人の携行食や軍の糧食としても広まっておりますが、もともとはこのビック領が発祥だとか。周辺領に技術を流布して、今ではあちこちで作られております。近隣では無料でその製法を流布したので、この領主の評判も良いようです。そして……ここの燻製肉は一味違う、と誰もが口を揃えておりました」


「ふん。燻煙の配合や材木の違いか……それとも肉そのものに工夫があるのか」


 アヴァンタイムは考え込むように顎に手をやった。食の話題には冷淡な彼ですら、少しだけ興味を抱かされたらしい。




 だが、続いた報告は一転して荒唐無稽に響いた。


「……そして、子供たちの話ですが」長身の部下が困惑気味に口を開く。


「ヴェゼル殿の周りには……いつも小さな女の子が飛んでいる、と」


「……は?」


「ええ。子供たちは皆、その小さな女の子を見たと主張しております。その子は『私はヴェゼルの婚約者だから、手を出さないでね』と、得意げに言い回っているとか……」


 一瞬の沈黙ののち、アヴァンタイムは深いため息を吐いた。


「ヴェゼル……ただの女好きのマセガキではないか」


 彼の声は冷笑に満ちていた。氷のような言葉が広間に落ちる。


「やはり、この領は欺瞞に塗れている。虚像で飾り立て、奇妙な噂で自らを神秘化する……田舎者らしい安っぽい芝居だ」


 部下たちは顔を見合わせたが、反論できる者はいない。アヴァンタイムが不快を隠そうともせず吐き捨てる。


「もういい。こんなところに長居しても益はない。明日立つぞ」


 その言葉には冷酷な決意があった。確かにフリードの武力は相当な者だろう。しかし、頭は全く賢くなさそうだった。才女と呼ばれるオデッセイ、氷の魔術師ヴァリー、そして謎めいたヴェゼル、鬼謀童子とは……――彼らの力など虚構にすぎぬ。そう、アヴァンタイムは結論づけたのだ。




 報告が終わった広間に、しばし静寂が訪れた。外では秋の虫の音が高まり、冷え込む空気が窓から流れ込む。燭台の炎がかすかに揺らぎ、アヴァンタイムの横顔を照らし出す。


 彼の瞳は鋭く、しかしどこか憂いを帯びていた。


「……結局、この領もまた他と変わらぬ。権力と利益の裏で、虚飾と偽りを積み重ねるだけだ」


 誰にともなく呟いたその声は、深い夜の始まりを告げる鐘のように重く響いた。






 だが、館の外では、子供たちが楽しげに走り回っていた。


「ほら! 見えたろ、あの小さな女の子!」


「ほんとだってば! サクラさんはヴェゼル様のお嫁さんなんだよ!」


 無邪気な声が夜風に乗って響く。アヴァンタイムは耳を塞ぎたくなる衝動を覚えた。


(……くだらん。まるで子供の作り話だ)


 だが、その笑い声がいつまでも途切れず、領内に温もりを満たしていることだけは否応なく伝わってきた。冷たく切り捨てたはずの彼の胸の奥に、わずかなざわめきが生まれる――。



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