第121話 アヴァンタイムビック領へ行く 2
やがて一行は領館へと到着した。
道中、アヴァンタイムは気を緩めることなく、残る二人の部下にそれぞれ密命を与えていた。
一人には村の暮らしぶりや領民の気質を探らせ、もう一人には特に酒やシロップ、そして噂に名高い白磁を重点的に調べるよう命じていた。
さらに、もし運よくサマーセット軍との戦いで使われたという未知の武器――世にまだ知られていない新奇の力の片鱗でも掴むことができれば、それは宰相エクステラにとって比類なき大きな土産となる。
彼の胸中には、任務への焦燥と同時に、帝都から遠く離れた田舎を見下す侮蔑が渦巻いていた。
所詮、万年騎士爵の一族。いくら「豊かに見える」領地であろうと、帝国の中枢を担う自分の眼からすれば、砂粒のような存在に過ぎない。
領館の門前には、すでに数人の人影が待っていた。農民風の者から武装した兵まで、その立ち姿には粗野さよりも不思議な落ち着きがあった。
アヴァンタイムは彼らを見下ろすように馬上で背筋を伸ばし、胸を張って声を張り上げる。
「我が名はアヴァンタイム。魔法省第二席にして、帝国より賜りし準男爵。――領主に取次ぐがよい!」
その声音には、権威を当然とする響きがあった。
だが、目の前の人々はざわめきもせず、慌てふためくこともなく、ただ静かに一礼した。
恐怖からではなく、秩序と誇りから来る自然な所作。まるで、帝都の大貴族の前に立つことに何の怯みもないと示すかのように。
アヴァンタイムは一瞬、眉をひそめた。
(……田舎者が。威を示すとは思わぬのか?)
人々の列の奥から、一人の女性が歩み出た。
若き領主の妻、オデッセイであった。
彼女は簡素な青の衣を纏い、装飾品は最小限ながらも、その立ち姿は静謐な気高さに満ちていた。
白磁のように澄んだ声が響く。
「ようこそ、ビック領へ。夫フリードはただいま帰途にございます。しばし、この私が応対いたしましょう」
その声音は涼やかで、芯のある響きがあった。
小領地の妻であるはずなのに、まるで都で鍛えられた高位貴族の令嬢と対峙しているかのような錯覚を覚えさせる。
アヴァンタイムは口元に僅かな皮肉を浮かべた。
(才女とやらの評判は伊達ではない、か。しかし……あくまで田舎の範疇にすぎん)
彼女の背後には、一人の少年が控えていた。左手には小さな箱を握りしめている。きっと『あの』箱だろう。
その名はヴェゼル。――ビック領の嫡男にして、噂に名高い「鬼謀童子」である。
アヴァンタイムはその姿を一瞥した瞬間、心の底から嘲笑がこみ上げてきた。
(この小僧が? 本陣を突き、敵将を捕らえた? 笑止千万。六歳の子供に何ができる。戦場を知りもしない者たちが尾ひれをつけ、英雄譚に仕立て上げただけだろう。それに、あの小さな箱。あれで何ができるというのだ。)
心中でせせら笑う彼の視線を、しかしオデッセイとヴェゼルは真っ向から受け止めた。
わずかに眉を動かす二人。その仕草に、アヴァンタイムは一瞬だけ、胸の奥を突かれるような妙な感覚を覚えた。
だがすぐに打ち消す。
(田舎騎士爵風情、何を思おうとどうでもよい。所詮は戯れ言だ)
そのときだった。
ヴェゼルの隣に控えていた女性の姿に、アヴァンタイムの目が釘付けになった。
驚くべきことに――それは魔法省で名を馳せた第五席の一人、ヴァリーであった。
だが、彼女の表情はアヴァンタイムの知る冷徹なものではなかった。
険しさも、緊張もない。代わりに柔らかな微笑みを湛え、まるで恋に酔う乙女のような面差しを浮かべていたのだ。
しかも彼女は――ヴェゼルと手を繋いでいた。
「ヴァリー……お前、なぜ手を繋いでいる……?」
思わず声が掠れる。
魔法省の第五席として、帝国中に名を知られた魔導士。その彼女が、こんな辺境の小僧と手を取り合い、嬉しげに並び立っている。
にわかには信じがたい光景だった。
だが、現実に目の前で繰り広げられているのだ。
ヴァリーは小さく会釈し、凛とした声で言い放った。
「この度、ヴェゼル様の婚約者となりました。よって魔法省へは退職の意を届け出ております。今後はこのビック領にて、永久に身を置く所存です」
ヴァリーの澄んだ声が応接間に響き渡った。
その言葉は、鋭い剣のようにアヴァンタイムとその部下の胸を貫いた。瞬間、空気が固まり、誰一人として言葉を返せない。
アヴァンタイムは思わず目を見開き、隣に控える部下と顔を見合わせる。
噂話として耳にしていた「ヴァリーが突然辞職した」という話――それは根も葉もないものと思っていた。
まさかこうして彼女自身の口から、しかも婚約の宣言と共に真実を突きつけられるとは。
「……ま、まさか……本当だったとは……」
隣の部下が小声で呟く。
アヴァンタイムは表情を整えようとしたが、頬の筋肉がこわばり、思うように制御できない。気づけば乾いた喉を鳴らし、深く咳払いをして取り繕った。
一行はやがて館の奥、応接間へと通された。天井は高く、壁には領の歴史を物語る古びた装飾が施されている。田舎領館とはいえ、どこか品格が漂っていた。
しばしの後、扉が開き、領主フリードが姿を現す。
その瞬間、アヴァンタイムは息を呑み、心臓が跳ね上がった。
(あの男……!)
そう、先ほど村の道で部下が子供を蹴ろうとしたとき、真っ向から非礼を諌めた男。
あれがこの領の主だったのだ。しかも、今はただの農夫や兵士のようにではなく、領主として威厳をまとって立っている。
だが、今さら謝罪できるはずもない。自分は魔法省第二席、準男爵である。相手はたかが万年騎士爵に過ぎない。立場上、頭を下げるわけにはいかなかった。
アヴァンタイムは視線を逸らし、あえて無視するように話を切り出す。
「ヴァリー。なぜ魔法省をやめる? 理由を聞かせてもらおう」
彼女は姿勢を正し、澄んだ瞳でまっすぐに言葉を返した。
「私は真実の愛を見つけました。未来の夫であり、今は私の魔法の師匠でもある――ヴェゼル様と共に生きていきたいのです」
その言葉を聞いた瞬間、アヴァンタイムのこめかみが脈打ち、思わず机を叩きそうになる。
(愛だと? たかが六歳の小僧に、何が愛だ! お前ほどの才媛が、なぜそんな戯言を……)
しかし、彼女の瞳には一片の曇りもなかった。恋に浮かれた一時の熱ではなく、確かな覚悟の光が宿っていた。
ヴァリーは続ける。
「私はこの地で暮らし、ヴェゼル様の子を授かり、共に未来を築きたい。それが私の望みです」
アヴァンタイムの頭に、ふとアビーの顔が浮かんだ。そうだ、彼女も確かこの小僧と婚約していたはずだ。
つまり、この六歳の子供にはすでに二人の婚約者がいることになる。
呆然としながら、彼は思わず口に出してしまった。
「……六歳にして二人の婚約者、だと?」
その場の空気が凍りつく。だが、場の空気をまるで気にせぬ様子で、ヴァリーがさらりと告げた。
「いいえ、ヴェゼル様の婚約者は三人です」
「な、なんだと……!?」
衝撃が走った。血の気が引き、背中に冷たい汗がつたう。六歳で三人の婚約者。そのうち一人は二十三歳の大人の女――常識では到底考えられぬ話だった。
アヴァンタイムと部下は呆然とし、言葉を失った。
まるで夢を見ているかのような心地だった。だが、目の前の現実は否応なく突きつけられる。ヴァリーの意志は石のように固く、どんな説得も通じないだろうと悟った。
「……この件、第一席に報告せざるを得ないな」
低く、吐き捨てるように告げる。
アヴァンタイムが席を立とうとした、その瞬間だった。
今まで黙していたフリードが、重々しく口を開いた。
「――次にうちの領民に手を出すことがあれば、たとえ魔法省の者であろうと、私は許さん」
その声音は怒気と覇気をまとい、部屋の空気そのものを震わせた。炎のような気迫が押し寄せ、応接間の温度が一瞬にして変わったかのようだった。
アヴァンタイムの背筋にぞくりと戦慄が走る。魔法省第二席の自分でさえ、息を詰めざるを得ないほどの威圧感――それは単なる騎士爵に過ぎぬはずの男から放たれているのだ。
顔を上げることすら苦痛に感じる。冷たい汗が背を濡らし、喉が乾き、言葉が出てこない。
やがて、絞り出すように答えた。
「……承知した」
それだけを告げるのが精一杯だった。
こうしてアヴァンタイムは、逃げるように応接間を後にしたのである。




