第120話 アヴァンタイムビック領へ行く
ヴェクスター領を追われたアヴァンタイムは、冷たい秋風を切り裂きながら馬を進めていた。
だが彼の胸中に去来していたのは後悔でも反省でもなかった。
「……あの老騎士め。まるで自分が帝国を動かしているかのように、偉そうに振る舞いおって」
唇を歪め、彼は心中で毒づいた。バーグマンを怒らせた原因が何であったのか、冷静に振り返ろうとする姿勢は微塵もない。
ただ己を追い出した者への憤りと、ビック領やその嫡男ヴェゼルへの憎悪が膨れ上がるばかりであった。
「鬼謀童子、だと? りんご一つ分しか収納できぬハズレ魔法の小僧に、何ができる。万年騎士爵の家に、未来などあるものか」
心の中で吐き捨てるように繰り返し、ヴェゼルの存在を認めまいとする。
しかし、彼が任務を負ってここまで来たのも、まさにその“鬼謀童子”と呼ばれる少年に関わることであった。
アヴァンタイムは帝国宰相――エクステラからの密命を受けていたのだ。
エクステラ宰相は、現皇帝の異母兄である。母の身分が低く皇位を継ぐことは叶わなかったが、その卓越した才覚ゆえに現皇帝自らが懇願し、宰相に迎え入れた人物である。
冷徹な眼差しで帝国の未来を見据える彼が、アヴァンタイムに命じたのはただ一つ。
――ビック領の真実を探れ。
その背後には皇妃の父、ベントレー公爵の進言があった。
公爵は、このビック領のフリードを「異質な強さを持つ男」と評し、その妻オデッセイを「稀代の才女」と讃えていた。
そして何よりも、嫡男ヴェゼルについては「傑物である」と断じ、こう言い切った。
「彼の趨勢が、今後の帝国の運命を左右することになろう。決して敵に回してはならぬ」
ベントレー公爵は老獪であり、人物鑑識の眼にも優れている。エクステラもそれを理解はしていた。だが同時に、こうも考えていた。
――万年騎士爵の家に、そこまでの価値があるのか。
帝国の中枢に生きる彼にとって、ヴェゼルの評価は過剰に思えた。今回のビック軍とサマーセット軍の戦にしてもそうだ。
百対五千で勝利など、常識的にあり得るはずがない。宰相は誇張であると断じていたし、アヴァンタイムもその意見に全面的に同意していた。
「おそらく皇妃と公爵が、何らかの思惑で話を大きく見せかけているのだろう。実際は裏で策を弄したにすぎぬ」
アヴァンタイムは心底そう信じて疑わなかった。ヴァリーの働きにしても同じだ。
第五席としてそれなりに優秀ではあったが、あの戦で伝え聞くほどの活躍ができるほどの魔法の腕はない。
滞在した数ヶ月で強くなったなど、そんな馬鹿げたことがあってたまるか。ヴェゼルの“誇張された噂”と同じように、ヴァリーの武勲も膨らまされているに違いない。
宰相の命は、そうした「誇張の裏」を暴くことにあった。もし可能なら、サマーセット軍との戦いで使われたという“未知の武器”の正体を探ること。
そして、噂に名高いホーネットシロップやホーネット酒、さらには白磁の技術など――それらの秘密を持ち帰ること。
アヴァンタイムは、自らが帝国の未来を担う調査役であると信じて疑わなかった。だがその胸中には、公的な使命感よりも、個人的な妬心が渦巻いていた。
「ヴァリーなど、ただの幸運に恵まれただけ。ヴェゼルなど、誇張された戯画にすぎん。……私がそれを暴いてやる」
そう吐き捨てるように呟きながら、彼は手綱を強く引いた。
進む先にはビック領。だが彼がたどり着く未来は、彼自身が想像しているものとは大きく異なっていた。
帝都から遠く離れた辺境の地。晩秋の風は冷たく、刈り取られた畑の切株が黄金色に鈍く光っていた。
魔法省第二席を追われるようにしてヴェクスター領を去ったアヴァンタイムは、三人の部下を従えてビック領へと馬を進めていた。
彼の胸の内にはいまだに怒りと不満が渦巻いていたが、顔には威厳を保つように厳しい表情を浮かべていた。
「いいか、忘れるなよ。私の位は帝国魔法省の第二席。すなわち準男爵の身分だ。この領地の者どもがいかに田舎臭かろうと、決して下に見られてはならん。お前たちも卑屈な態度をとる必要はない」
馬上でそう言い放つと、三人の部下は一様に頷いた。
若い二人はまだ顔に青さを残し、最後の一人は中年で経験はあるが、アヴァンタイムの機嫌を損ねぬよう黙して従っていた。
領の境に差し掛かると、まず一人を先触れとして館へ向かわせ、残る二人と共にアヴァンタイムはゆったりと馬を進めた。
彼には「辺境の地を視察する賓客」の余裕を演出したいという意図があった。
道すがら、領地の景色が目に入る。刈り取られた田畑は規律正しく整えられ、納屋には干した作物が積まれていた。
もうすぐ冬を迎えるにもかかわらず、人々の顔は明るく、すれ違うたびに「ごきげんよう」「旅のお方か」と気軽に声をかけてくる。
アヴァンタイムは眉をひそめた。
(……領民の生活ぶりは悪くない。むしろ豊かとすら言える。だが何だ、この馴れ馴れしさは。私は帝国魔法省の準男爵だぞ? もっと畏まってもよさそうなものだが)
豊穣の気配と、領民の余裕ある態度。
それは才女と名高い領主夫人オデッセイの政務手腕の成果であろうと、アヴァンタイムはすぐに気づいた。
しかしそれを認めることが、彼の矜持には耐え難かった。
「ふん……女の采配など、高が知れている」
吐き捨てるように呟いたその時だった。
――ばたばたと小さな足音。
一人の子供が、角を曲がって突然飛び出してきた。麦色の髪を振り乱し、遊びに夢中になっているらしい。
アヴァンタイムの馬の前を横切ろうとした瞬間、部下の一人が咄嗟に叫んだ。
「無礼者! 貴き御方の前を塞ぐとは!」
言うが早いか、彼は怒りにまかせて子供の身体を蹴り飛ばそうと足を振り上げた。
――しかし。
その足首を、何者かの大きな手ががっちりと掴んだ。
「なっ……!?」
部下はバランスを崩し、そのまま路上に転がり込んだ。土埃が舞い、子供は目を丸くして立ちすくんだ。
「何をする!」
倒れた部下が怒鳴りつけると、目の前に影が落ちた。
そこに立っていたのは、筋骨隆々とした大男だった。陽に焼けた肌に、逞しい肩と太い腕。決して甲冑も武器も帯びてはいない。
ただ麻の衣をまとい、村人と変わらぬ姿で立っていた。だが、その存在感は周囲の空気を一変させた。
男はにかっと笑い、ゆったりとした調子で言った。
「いやぁ、すまんな。確かに子供が横切ったのはよくない。だが……蹴り飛ばすことはなかろう」
その声に、アヴァンタイムの背中を冷たい汗がつっと流れた。言葉遣いは柔らかく、笑みすら浮かべている。だがその奥に潜む“何か”を本能が察知していた。
(な……何だ、この男は……? ただ立っているだけだというのに、体が動かん……!)
部下も同じだった。怒鳴りつけようとした口はすぐに乾き、視線を合わせることすらできない。必死に強がって吐き捨てるのが精一杯だった。
「……気をつけろ!」
そう言うと彼は乱暴に立ち上がり、足の土を払い落とした。子供は怯えながらも男の背に隠れる。
男は何事もなかったかのように子供の頭を軽く撫で、アヴァンタイム一行に軽く会釈をした。
「お騒がせしたな。子供はよく走り回るもんだ。どうか大目に見てやってくれ」
それだけを言い残すと、男は子供を連れて人混みの中へと消えていった。
アヴァンタイムはその背を睨みつけながらも、声を掛けることができなかった。背筋に残る圧迫感は、去った今もなお消えなかったからだ。
(くっ……一体何者だ。村の百姓風情に過ぎぬはずなのに……。いや、待て。まさか……嫡男の“家臣”の一人なのか? もしかしたら、ああいう家臣の功を自分の功にしたのかもしれんな)
帝都で聞き及んだ噂が脳裏をよぎる。ビック領には、奇怪な力を持つ家臣たちが集っている、と。
「……ふん。どうせ大した者ではあるまい。田舎者が田舎者を守ったに過ぎん」
自らに言い聞かせるように呟くと、アヴァンタイムは馬を蹴って先を急いだ。
だがその胸には、拭えぬ不快感と、言いようのない恐怖が渦巻いていた。
領民の挨拶が馴れ馴れしく感じられたのも、その男の圧倒的な存在感も、アヴァンタイムにとっては「この土地が自分を軽んじている証拠」として記憶された。
やがて彼は知るだろう。あの逞しい男こそ、ビック領を支える柱であり、その一挙手一投足が帝国の均衡すら左右するほどの重みを持っていることを――。




