第119話 アビーの新しい講師
ヴェクスター領では、アビーを教えるために帝国の魔法省から新たな魔法使いが派遣された。
二人の男は対照的な存在だった。
年配で風格のある第二席のアヴァンタイムは、四十代に差し掛かる顰めっ面の男で、何事にも眉間に皺を寄せ、口をへの字に結んだ表情が常に固定されている。
もう一人は、二十代半ばで、どこかおどおどした雰囲気の第八席、ウルス。
どちらも魔法省に所属する精鋭ではあったが、その性格や風貌から、周囲には対照的な印象を与えていた。
アビーを見たアヴァンタイムは、冷ややかに観察を続け、やがて低く呟いた。
「……なるほど、この子か」
彼の口調には計算高さと冷徹さが滲んでいた。
アビーに対して特別な感情を抱いているわけではないが、その才能を見抜いた彼の目は、確かな期待と興味を示していた。
翌日、早速魔法の授業が始まる。講師を務めるのは、若干おどおどしたウルスで、初めての担当にやや緊張している様子がうかがえた。
アヴァンタイムは、授業の様子を後方で静かに観察する。
授業は座学から始まった。しかし、その内容は、かつてヴァリーがアビーに教えたものとほぼ変わらない、単調でありきたりのものだった。
魔法は基本的に、魔法陣と詠唱の理解が重要であり、まずは魔法陣を見て書き写し、形を覚える。
詠唱も同様に、書き取りと発音を反復し、体に覚えさせる。さらに、師事する魔法使いの動作を観察し、目に焼き付け、あとは個人練習に没頭する――それが一般的な魔法教育の流儀である。
アビーは真面目に机に向かい、ノートに魔法陣を書き写す。
しかし、あまりにも退屈で、ついまぶたが重くなる。眠気をこらえきれず、軽く目を閉じてしまう瞬間もある。
その様子を見て、アヴァンタイムの顔に苦い表情が浮かぶ。眉間の皺がさらに深く刻まれ、口元は少し歪んだ。
「……やはり、ヴェゼルの教え方は特別なのね」
心の中で呟きながら、彼女は再確認する。
ヴェゼルの方法は、一見すると常識を逸脱しているように思えるが、目に見えて魔法の威力が上がる実践的な教え方であることを、この瞬間改めて痛感するのだった。
実際、ヴァリーやヴェゼル自身もアビーに教える際、特殊で異端ともいえる魔法の運用方法を秘匿するよう注意していた。
まだ幼い彼女がその力を無造作に振るえば、周囲から奇異の目で見られるのは必至である。
特に、魔法の威力が突出しているため、秘密裏に行使しなければならない。
バーグマンもその点に同意し、人前ではその特殊な魔法は行使しないよう、厳重に念押しした。
午後になると、授業は実技に移る。アビーはウルスとアヴァンタイムの前で魔法を披露するが、抑えめに威力を調整して行使する。
それでも、彼女の魔法は非常に高い水準に達しており、二人の魔法使いは目を丸くした。
アヴァンタイムは眉をひそめ、唇を薄く結びながらも、心の奥底で驚きを隠せない。
ウルスも、緊張で体を小刻みに震わせながら、何度もアビーの手元を見つめた。
ヴァリーは教えることは不得手とされるが、それでもこの子の才能は突出している――誰の目にも明らかだった。
夕食時、話題は自然と、先日隣の領で発生した戦争に及んだ。
夕食の席。温かな灯りの下で、談笑していた空気がふと変わった。
アヴァンタイムが口火を切る。
「この間の、ビック軍とサマーセット軍との戦――。耳にしたのですが……」
バーグマンは重々しくうなずき、低く言った。
「……あれは、前代未聞の戦だった」
しかしアヴァンタイムは、僅かに顔をしかめる。もとよりヴァリーを快く思っていない彼にとって、その武勲など認めたくなかった。
「ヴァリーが活躍した、と。だが、百対五千で勝利など荒唐無稽でしょう。どうせ、裏で何か卑劣な策でも弄したのでしょうな。……まさか正面からの戦で勝ったなどとは、到底信じられません」
さらに彼は皮肉を込め、あの戦を率いたと噂される嫡男の名を挙げる。
「それに……鬼謀童子、ですか。笑わせます。りんご一個程度しか収納できぬ“ハズレ魔法”の子供に、いったい何ができるというのか」
その一言に、バーグマンの手が止まった。杯を持つ指が白くなるほどに力がこもり、顔は見る間に赤く染まっていく。
「……何を言った、アヴァンタイム殿」
静かな怒気を孕んだ声。次の瞬間、彼は怒りを隠そうともせず叩きつけるように言った。
「アビーはビック領の嫡男――ヴェゼルの婚約者だ! あの戦の報せは誇張ではない。そもそも、あの子を侮辱する言葉を、我が館で吐くことは断じて許さん!」
場は一瞬で凍りついた。
アヴァンタイムの目が大きく見開かれる。彼にとって、アビーがヴェゼルの婚約者であるという事実は寝耳に水だった。
「……な、何と……」
狼狽を隠せない彼の声に、バーグマンはさらに強く言い放つ。
「今日すぐ出ていけとは言わん。しかし明日、早々にこの領を立ち去ってもらう。二度と我が家でそのような戯言を口にするな!」
それ以上、言葉を重ねる余地はなかった。
翌朝、まだ冷たい朝靄の中、アヴァンタイムは沈黙のまま館を後にした。
彼の背中には、険しい表情と共に、どこか落胆の色も垣間見えた。
ヴェクスター領の朝は、まだ眠気を帯びた陽光の中で、静かに新たな日を迎えていた。
ウルスは少し緊張しながらも、アビーの授業を引き続き担当し、アヴァンタイムが去った後もその観察眼は衰えなかった。
彼の中では、アビーの才能は特別優秀に見えた。そして領主バーグマンの断固たる姿勢が、脳裏に刻み込まれていた。
アビーは普段通りの穏やかな表情を見せながらも、心の奥底ではヴェゼルへの信頼が混じり、微笑みを浮かべていた。
ウルスは少しずつ、授業の中でのアビーの才覚を理解し、恐る恐るながらも彼女の成長を見守る覚悟を決めるのだった。
その日、ヴェクスター領の館では、静かながらも決意と才能の交錯する新たな日常が始まった。
外の世界では帝国の魔法省が厳しい監視を続ける中、アビーの成長とヴェゼルの教育の特異性は、これからさらに重要な意味を帯びていくことになる。
――アヴァンタイムが去ったことで、逆にアビーとヴェゼル、そしてオースターやランツァの間には、密やかな絆と自由な学びの場が確保されたのである。




