第118話 アビーとオースター
翌朝。
清々しい朝の光が窓から差し込み、食後の静けさに包まれた屋敷で、オースターは深い祈りを捧げながら、神からの啓示を思い返していた。
――「やがて、この子は世界の境界に至る」。
その言葉は、オースターにとって揺るぎない真実であり、同時に計り知れない重荷でもあった。
指し示す者は、間違いなくアビーという幼い少女であろう。
しかし、まだ六歳の彼女に、世界の運命を背負わせることになりかねない事実が本当に正しいのか。
オースターの胸中には迷いが渦巻き、祈りの言葉の合間に不安が入り込む。
「幼子に重責を負わせるなど、神の御心に背くことではないか……だが、逃れることも許されぬのか……」
その思いに心を乱されながらも、オースターは決意を固める。
己の役割は啓示の告知者ではなく、あくまで幼子を守り導く教師であると信じるのだ。
彼は、アビーの父であるバーグマンのもとを訪れ、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「……神の啓示は、確かにございました。しかし、今すぐに告げるべき時ではないと考えます。私はこの地で布教活動を広げるつもりはありません。ただ一人の聖職者として、市井に根差し、アビー嬢に寄り添い、導くことをお許していただけませんでしょうか。あわよくば……アビー嬢の教育者として、共に歩むことをお許しいただきたいのです」
その真摯な態度と、言葉の端々に漂う誠意に、バーグマンは一瞬沈黙した。
長く考え込むその背中には、重責に耐える者の姿があった。やがて静かに頷き、口を開く。
「……試験的ではあるが、認めよう。あなたの真摯さに偽りはないと、私は信じよう」
こうして、オースターはアビーの教育係として正式に迎え入れられたのだった。
数日後、アビーはオースターに伴われ、ベクスター領の領都アクロスの市へと赴くことになる。
同行するのは、猫族の少女ランツァ。
孤児であった彼女はすでにアビーの手で侍女として迎え入れられ、屋敷の侍女頭や執事の指導のもと、教育を受け始めていた。
市内にある大きな教会に立ち寄ると、清貧かつ真面目な女性司教と対面することとなった。
その姿は、金銀で飾り立てる一部の聖職者とはまるで異なり、オースターの胸を深い安堵で満たした。
だが、同じ教会に仕えるシスターから、思いがけない知らせが届いた。
「二日前のことです。猫族の女性が……娘のことを案じ、そして静かに息を引き取られました」
ランツァの母の訃報だった。薄々察していたであろう少女は、言葉少なに涙を流す。
肩をそっと抱き寄せたのはアビーであり、膝を折って優しく語りかけるのはオースターだった。
「ランツァ。母君はもういない。しかし、君は一人ではない。神がこの縁を与え、私たちと出会わせてくれた。これからはアビー嬢と共に、私もそばにいる」
ランツァは涙を拭い、か細い声で力強く頷く。
「……はい。アビー様のために、精一杯尽くします」
その様子を見守り、司教は柔らかく微笑んだ。
「オースター司祭。まずはこの教会に籍を置き、この街で活動してください」
オースターは深く頭を下げ、静かに誓う。
最終的にバーグマンの承認も得て、オースターは正式にアビーの教師、そして教会の一助として、その使命を担うこととなった。
アビーの小さな手を取り、ランツァを隣に従え、オースターは心の中で決意する。
神の啓示の重さを背負いながらも、決して幼き命を傷つけず、導き、守ること――それが彼に課せられた唯一の役目であると。
森や市での小さな出来事の一つ一つを通じ、彼らは互いに学び、支え合いながら成長していく。
アビーは神の啓示を理解するにはまだ幼すぎるかもしれない。
しかし、オースターの存在が、彼女の世界に確かな光をもたらすであろうことは疑いようもなかった。
長い年月の中で、オースターは幾度も神の啓示に立ち返り、迷いながらも信念を持ち続ける。
人として、教師として、そして聖職者として――幼きアビーとランツァを未来に導くために。
それから数日後、アビーはふと孤児院を訪れたいと申し出た。
石造りの古びた建物に足を踏み入れると、壁はひび割れ、窓ガラスは歪み、薄暗い室内には十数人の子供たちが肩を寄せ合いながら佇んでいた。
彼らの体は痩せ細り、衣服は古びて破れ、疲労と空腹がその小さな体に刻まれているのが一目でわかる。
院長の老女は申し訳なさそうに言葉を選びながら語った。
「施しは年々減るばかりで……衣も食も足りません。十分に手を差し伸べられず、心苦しい限りです」
その時、ふと目をやると、一人の子供が高熱にうなされ、床に倒れているのが見えた。
「数日も熱が下がらず……医者に診せる金もなく……」
オースターの胸に、重圧と焦燥が再び蘇る。
《鑑定》の力は、彼にとって呪いのような重さを持つ。しかし、目の前で苦しむ命から目を背けることなど到底できなかった。
震える手を子供の額にかざし、静かに祈る。
「――《鑑定》」
淡い光が手のひらから放たれ、視界に詳細な情報が浮かび上がる。
【病名:悪性湿熱 原因:不衛生な水 処置:煮沸水と草薬】
オースターは息を呑む。
「……治せます。清潔な水と、簡単な薬草で」
以前の自分の《鑑定》では、ここまで具体的な指示は出なかった。進化しているのか
――理由はわからないが、彼の目に自然と涙がにじむ。
「……鑑定は、呪いではなかった。救いの力だったのだ」
その言葉を聞いたアビーは、ぱっと顔を輝かせ、目を輝かせる。
「よかった! ねえ司祭さま、すぐに薬草を探しに行こう!」
家に戻り、母テンプターに事情を話すと、護衛二人を伴う条件で、森の浅い場所への薬草採取が許可された。
こうして、アビー、オースター、キックス、そして護衛二人の五人は、朝の柔らかな光を受けながら森へと入った。
幸い、必要なフェンネルとカモミラは森の入り口付近で容易に見つかり、危険はほとんどなかった。
採取した薬草を煎じ、子供に与えると、その夜には容態が明らかに改善し始めた。院長は涙を流し、子供たちは声を上げて喜ぶ。
だが、バーグマンの胸には疑問が残った。
――領として孤児院に相応の予算を割り当てていたはず。それなのに、なぜここまで逼迫しているのか。
すぐに教会担当の役人を呼び出し、事情を問いただす。
調査の結果、孤児院に回るべき資金を一部横領していた事実が明るみに出る。
「……不届き者め!」
バーグマンは激怒し、即座に役人を更迭・捕縛させた。そして再発防止策として、孤児院の運営を直接監査する仕組みを構築。
その視察役を、まだ幼いながらも、アビーとオースターに託すことを決めたのだった。
「アビー、オースター。お前たちに、この地の子らを守る役を任せる」
アビーは真剣な瞳で頷き、オースターも胸に新たな決意を刻む。
――神の啓示に怯えるのではなく、人を導き、救う力として歩むのだ、と。
その夜、森の小道を抜ける風は涼やかで、二人の心を静かに落ち着かせた。
ランツァの手は緊張でわずかに震えていたが、アビーがそっと握り返し、二人の小さな手は希望と決意を伝えあった。
オースターは後ろから二人を見守りながら、静かに祈る。
――神よ、この幼き命を守り、導く力を、私にお与えください。
孤児院の灯りが遠くに見えたとき、オースターは確信する。
《鑑定》の力も、神の啓示も、すべては無駄ではない。人のために用いることで、救いとなり得るのだ、と。
森の緑と小川のせせらぎが静かに包む中、アビーとランツァ、そしてオースターは、今日という一日を静かに噛みしめながら、未来へ向かって歩みを進めるのだった。




