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第117話 オースター司祭の巡礼 その3

 ヴェクスター領都の門をくぐった瞬間、オースターは胸を震わせた。


 石畳の大通りは掃き清められ、両脇に建ち並ぶ商店の軒先は整然とした看板と彩り鮮やかな商品で飾られている。


呼び込みの声は明るく、行き交う人々の顔には笑みが浮かんでいた。子どもたちは笑い声を上げて駆け回り、兵士たちも市民に穏やかな視線を送っている。


 ――善政。


 オースターの胸に、自然とその言葉が浮かんだ。荒れ果てた領や、奢った司教の街を巡ってきた彼には、この空気がまるで異国のように感じられた。


 だが、その一角に、異質な影があった。


 大通りから外れた石段の脇に、ひとりの少女が座り込んでいた。


 十歳ほどだろうか。痩せ細った体に薄汚れた布切れのような服。尖った耳と、頭から覗く小さな猫のような耳が、彼女が獣人族――猫族であることを示していた。


 少女は石畳をじっと見つめ、力なく膝を抱えていた。通りすがる人々は彼女に冷たい視線を投げ、誰一人として声をかけようとしない。むしろ邪魔者のように目を逸らして通り過ぎる。


 オースターは足を止めた。


 ――孤児か。


 胸の奥が締め付けられる。これまで幾度となく見てきた光景だ。助けを求める手を伸ばしても、世間は冷たく目を逸らす。施しをしても、焼け石に水。そんな絶望を彼は嫌というほど味わってきた。


 それでも――今度こそ声をかけようとしたその瞬間。


 「大丈夫?」


 澄んだ声が耳に届いた。


 驚いて視線を向けると、そこには六歳ほどの小さな少女が立っていた。


 金色の髪が光を受けて輝き、瞳は湖のように澄んでいる。身なりは整い、清楚なワンピースに可憐なリボン。だが、その佇まい以上に目を引いたのは、その声に込められた優しさだった。


 少女は膝を抱えていた猫族の子に歩み寄り、同じ目線までしゃがみこんだ。


 「名前は?」「……ランツァ」


 掠れた声が返ってきた。


 「ランツァちゃん。どうしてここに座っているの?」「……お母さんと二人で、この町に来たの。一月くらい前に。でも……お母さんは、三日前に食べ物を探しに行って……まだ帰ってこないの」


 ランツァの瞳が揺れた。その表情から、彼女がすでに「母は戻らない」と察していることが伝わってきた。


 「今日食べるものはある?」「……ない」「寝る場所は?」「……ない」


 言葉を紡ぐうちに、ランツァの肩が震え、やがて俯いて泣き出した。


 小さな少女――アビーは、しっかりとその薄汚れている手を握った。


 「じゃあ、私の家に来る?」


 ランツァは涙に濡れた顔を上げた。その瞳に浮かんだのは、疑いではなく、信じたいという必死な願いだっただろう。小さく、だが確かに頷いた。


 アビーは微笑み、ランツァの手を引いた。


 その時だった。


 二人の姿を見つめていたオースターと、アビーの視線が重なった。


 浮浪者のようにぼろぼろの外套をまとい、杖を手にした男――誰もが目を逸らすようなその姿を、アビーは真っ直ぐに見据えた。


 「司祭様でしょう?」


 その一言に、オースターの胸が強く打たれた。


 誰も自分を司祭だとは思わなくなったこの姿で――。


 「もしよければ、あなたも私の家に来ませんか?」


 なんの衒いもない微笑み。その純真さに、オースターは気づけば静かに頷いていた。






 アビーに導かれるまま、二人――オースターとランツァは大きな屋敷に辿り着いた。


 重厚な門、広い庭園、立派な館。侍女や執事が出迎えに現れた瞬間、二人は悟った。


 ――ここは領館。


 アビーが、ただの子供ではなく領主の娘であることを。


 「お客様よ。お風呂と着替えをお願いね」


 アビーの言葉に侍女たちは自然に頭を下げ、二人を導いた。温かな湯に順番に浸かり、清潔な衣をまとった時、ランツァは夢のような顔をしていた。


そして湯を張りかえ、オースターもまた、久方ぶりに塵を落とし、司祭らしい姿を取り戻した。


 食堂に案内されると、長いテーブルには豪勢な料理が並んでいた。


 「おお、客人か!」


 朗々とした声が響き、堂々たる体格の男が現れた。バーグマン――アビーの父である。


 「さあ、遠慮せずに食べるといい」


 オースターは礼儀に従い、静かに食事を口にした。だが、ランツァは違った。空腹に耐えきれず、手も口も止まらず、ぐちゃぐちゃに食べてしまったのだ。


 一瞬、場が固まる。だが、すぐにバーグマンは豪快に笑った。


 「ははは! うまいか!」「……うん!」


 ランツァの目に涙が浮かぶ。


 アビーも微笑み、「お腹がすいていたのね」と頷いた。テンプター夫人も侍女たちも、にこやかに笑った。


 食事が終わる頃、アビーがランツァに向き直った。


 「ねえ、うちで働かない?」


 「わ、私でもいいの……?」


 「もちろん!」


 アビーは即座に頷き、ランツァは嗚咽を漏らしながら「うん」と答えた。


 その瞬間、バーグマンが豪快に笑い声を上げた。


 「よし! 決まりだ! ランツァ、今日からは家族の一員だ!」


 テンプター夫人や侍女たちも頷き合い、食堂は温かい笑いに包まれた。


 オースターは、その光景を呆然と見つめていた。


 ――これが……温かさ。


 彼が長き巡礼の旅で求め、どこにも見つけられなかったもの。祈りでは救えず、施しでは埋められなかった、人の心の在り様。


 涙が込み上げそうになり、彼は慌てて俯いた。




 

 その夜。


 借り受けた一室で、オースターは膝をつき、静かに祈りを捧げていた。


 ランツァは、ようやく安らかな眠りに就いているだろう。アビーは、無垢な笑顔で人を救った。バーグマン家は、すべてを受け入れた。


 ――これが、神の望む姿なのか。


 その時。


 『幾重の迷いを越え、辿り着くべき光……あの者に在り』


 心の奥底に、声が響いた。


 オースターは震えた。何度も聞いてきた、神の声。


 『探索の果て、汝が視線を向けしもの……『境界を示す者』、すでに姿を変えしあの者』


 「……あの娘……アビー……」


 オースターの瞳から涙が零れた。


 ヴェゼルの鑑定の儀で見えた「境界」の啓示。己の罪を背負い、巡礼を続けた月日。すべては、この出会いのためだったのか。


 「私は……ようやく辿り着いたのか」


 彼は胸に手を当て、深く頭を垂れた。


 ――この家、この少女こそが、自分の贖罪と啓示の答え。


 オースターの巡礼の旅は、ここで新たな意味を得たのだった。


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